2002/09/02 (Mon)YAHOOブログから
大正12年9月2日
県庁仮事務所が海外渡航検査所内に
設置される
桜木町の中央職業紹介所を仮市庁舎に
陸戦隊が上陸し市民の救護を開始
治療班本部が桜木町の海外渡航検査所に設置
山本権兵衛内閣成立
政府、非常徴発令を発布
税関仮事務所
県港務部が港内コレア丸に設置
飛行隊が出動
臨時震災事務局の官制が発布
戒厳令が施行
前日の関東大震災に対して
翌日から、このように
復興の足踏みは始まっていたのだ。
人間というものは、偉大だなあと思う。
しかし、その裏側で実際に歩みを止めてしまっては、人は生きていくことは出来ないだろうとも思う。
このように、史実として残る以上に、数多の、生(せい)への戦いは
その即座から始まっていたのだろう。
昨日、防災の日、ということで、地震の起きる範囲についての訂正があった。
地震でも、戦争でも、あらゆる災害でも、その後生きている者のみに、その事を語ることが許される。
そう、人生は生きてなんぼのもんです。
どのようなことが起きても、その後生きていたら、それをラッキーとして、その先に良い人生を送って欲しいと思う。
本日、自己破産を起こした知人から、再起の葉書を受け取った
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昨日、アフガニスタンとパキスタンとの
経路になるカイバル峠の付近で震度6の
地震があり、国が閉鎖されているので
正確な数字は追えないが
1000名以上の方が犠牲になっていると
報じられていた
その記事を読んで、もし、関東大震災が
鎖国の時代に起きていたとしたら
横浜自体は江戸時代には既に埋め立てられて
いたそうだけど
港もなく、当然海外からの助けも無く
恐らく今を以て
それほどの発展を看ることもなく
寂れた街になっていたのかもしれない
震災当時の横浜港は開港から百年経つことなく
所謂アジア圏のハブ港として
多くの国からその価値を認められて
中国やロシア、また、紫禁城からも宝飾が
届けられたという記録がある
特にアメリカでは官民合わせて今の金額で
900億もの資金を提供してくれたとか
一方で、震災のように大きな災害を利用した
人権や思想に対する排斥
井戸に毒を投げ込んだという
怪情報での集団殺戮
横浜の山手署の署員が後に語っていたことによると
単に美形だからという理由で
なぶり殺しに遭うということもあったと
いう
たった一人の言葉が
やがて大きな岩のようになって
転がっていく
パニックになった人の集団心理を利用する
ことの恐怖を思い知らされた
一方、インドの人達は震災で助けてくれた人々に対して
感謝の気持ちのムスクを山下公園に建てた
そしてまた
当時横浜の港の建設に尽力した
有吉忠一市長はとても賢くて
震災の翌年には、今バザーの模様される
横浜公園に県下中の植木屋さんを呼んで
三か月にわたる市を開いたのだとか
当時は馬と台車に依って根っこごと運ばれて
地に仮植えをする
それを三か月も続ければ大きく育ち
持ち帰ることも出来なくなる
それならばと、無償や安価で買い取り
その植木を焦土と化した横浜の街路樹として
街の回復の一つとしたのだとか
横浜公園の外周にある椎の木や山下公園前の
銀杏の木などはその頃の名残なのだとか
しかし
であるならば、既に百年を超えた大木
特に横浜公園の外周の木は激しい風雨の後に
枝が落ちたりしていることが有るので
そろそろもう一度長い植木市を開いたほうが
良いのではと思う
関東大震災の後の記録を紐解いていくと
たくさんの人の知恵により
今の、国際都市と言われる横浜が
出来上がった
ということがよく判って来る
百年前
横浜市民は同じ地球の住民として
助け合って生きて来て
これから先もそうあって欲しいと思う