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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/06/14 (Fri) YAHOOブログから

 

 

サッカーのワールドカップで、日本は決勝戦に進出した。

その喜びで、世の中は大変賑やかなようだ。

我が家に花を届けに来た花屋の店主も気が漫ろになっていて
帰って行くのを見送りながら

車の運転に注意を払って欲しいと思った。

そう思って、中田のシュートを見逃した。

私はサッカー自体は好きだが

このワールドカップにはそれ程興味が無い。

それでも世界戦で初のゴールを決めた中田の顔を見ると

良かったなと思う。

テレビの中継で

いろいろな箇所での応援の様子が伝えられていた。

人々が皆、笑顔で勝ち鬨を挙げている。

東京に勝鬨橋という名の橋がある。

明治38年

日露戦争の旅順陥落を祝って「かちどきの渡し」

という渡し船の施設を作ったのが由来だとか。

橋は昭和15年の今日完成したそうだ。

平和の中の勝ち鬨は、楽しいと思う。

 

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勝鬨橋という名前には物凄く痛い思い出がある。

 

私が東京の出版社に勤めている頃

テレビドラマの視聴率が30を切ると危険水域と言われて

NHKのバラエティ番組が80%の視聴率を上げていた

 

銀座のビルに通勤していた私は

その視聴率の計算をしながら

資料を貰うために外回りに行く

 

当時はFaxやメールなどという便利なものはなく

何処までも徒歩で行かねばならない

 

視聴率はニールセンとビデオリサーチ

番組のタイムテーブルは各ラジオとテレビ局

CMについては電通や博報堂そしてオリコミ

そして番組を提供する各企業

時々開業するテレビ局のレセプションに行ったり

 

ビデオリサーチは出来て数年の会社で

木造で有り

ラジオ局もまた、当初木造の建物があり

 

それでも戦後二十年が経つと

高層ビルが建ち始め

浜松町の駅前に世界貿易センターという

日本一高いビルが建った頃

 

その日の午後一時に

新しいCMの資料を貰いに

日本橋の日清のビルに行った

 

そのビルはやはり新しく

私の記憶では地下鉄の通路からそのまま

建物に入ることが出来たと思った

 

たぶん、ハッピーじゃないかというCMの資料だと思う

 

それを受け取り、下に降りて受付のおねえさんに挨拶して

かっこつけたのだと思う

当時5号というサイズの服を着た162cmの私は

自分では颯爽とそのビルを後にした

 

しかし

当時利用されたことが有る人なら分かることだと思うが

地下鉄の入り口は凄く分かり憎い

 

道路の途中に半間ほどの入り口が有り

その上に地下鉄のマークがあるだけ

 

そのマークを見失った私はとりあえず歩いた

 

歩いていると、何故か人と出会わない

そしてそのうち潮騒の音が聞こえ始め

辺りは薄暗くなり始めて

 

漸くドラム缶で焚火をしているおばさんを見つけて

銀座の方向を教えて貰おうと思ったら

しらねぇという一言

 

絶望的になりながら元来た道を歩きはじめると

夕暮れに赤提灯の明かりが燈り

 

そこでお酒を飲んでいる人に地下鉄の入り口を訊ねると

顎でしゃくって、そこ、と

 

見るとそこに駅への入り口が有り

 

会社に帰ると

ハリスのガムをくれた社長の息子さんから

物凄く叱られたが

先輩の、仕事が済んだから勝鬨橋から

船で横浜に帰ろうと思ったんだよな

との言葉で皆さんに笑われて、とても有り難い思いをした

 

今でも日清のCMを聞くと、その時を思い出して

恥ずかしくなったり懐かしくなったりする

 

勝鬨橋の近くで

ドラム缶にあたっていたおばさんの

銀座を知らない

 

そう言えば私が子どもの頃

横浜の中区の下町のおばさん達が

横浜駅のある横浜に行ったことが無い

と話していたことを思いだした

 

当時のおばさんの行動半径は

そう広いものでは無かったようだ

 

スマホで検索すると

銀座の事務所の住所から勝鬨橋迄徒歩で

3キロほどとあった

 

スマホが有れば駅の場所も簡単に見つけることが

出来たかも知れない

 

ただ、その便利さに慣れてしまって

もし、このスマホの電波が途切れたら

 

たぶん私はあの頃よりもずっと不安な気持ちになると思う

 

慣れという依存というものは恐ろしいと思う

 

 

■ 2002/06/13 (Thu) YAHOOブログから

 

 

私の手元に一枚のテレフォンカードがある。

そこには通し番号が打たれている。
そして、写っているのは

広島カープのユニフォームを着た、衣笠祥雄。
 

連続試合出場世界新記録を達成した記念に

後援会の方が作った中の一枚

どんなことでも、継続するというのは、なかなか難しい。

この場所に文章を書くことも

誰に決められたわけでもなければ

誰から頼まれたものでもない。

ただ、欠かさずに書くということに小さな喜びがある。


尤も、何も制約されず思いのまま綴っているから

続いているのだろうと思う。

文章を書く者にとって

一番辛いのは

新しい言葉が沸いてこない事なのかもしれない。

1946年の今日

「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」

「いつもお前たちの事を考へ さうしてメソメソ泣きます」

「子供は皆、あまり出来ないやうですけど

陽気に育ててやつて下さい」「津島修治」

 

そして最後に

「美知様 お前を誰よりも愛してゐました」と

妻に宛てた遺書を残して

太宰治は他の女性と玉川上水に身を投げた。

Out of our quarrels with others we make rhetoric. 

Out of our quarrels with ourselves we make poetry.

 

他人との喧嘩から表現を覚え

自分自身との争いから詩を作る。

と綴ったのは、アイルランド生まれの 詩人W・B・イェーツ。
彼は1865年の今日、6月13日に生まれている。

夫婦を継続するには、多くの会話が不可欠なのかも知れない。

 

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太宰治はこの心中の15年も前に

鎌倉の腰越の小動岬で若い女性と心中を図り

女性の逝去で罪に問われている

 

私が最初に太宰の文章に触れたのは

中学の教科書に有った走れメロスだが

TBSのアナウンサーの安住紳一郎氏が

この文章の考察を述べていて

思わず、うん、うん、と肯いてしまうほど

有体に言えば現実離れした内容だと思ったことを思い出した

 

太宰の亡くなった日は桜桃忌とされるが

これは彼の最期の作品である桜桃という題名に寄せて

同じ三鷹に在住していた文人の今官一に命名されたのだそうだ

 

われ、山にむかいて、目を挙ぐ

の書き出しから始まる

桜桃は、吾子への遺言の書のようにも思えた

 

桜桃 さくらんぼ

そう言われて私が思いだすのは

 

横浜の山手警察署の対面に米軍のベースが有った頃

 

PXという米軍の人専用のお店が有り

そこに叔父の奥さんが勤めていた

 

PXとはPost Exchange の略だそうで

軍人専用のお店ということのようだ

 

なので全てにTaxが掛からず

市中で求めるものに比べてかなり安価で有り

 

その安価なものにホールでのチェリーパイが有って

叔母がいるときに母に連れられてその店に行くと

そのチェリーパイを一つ買い

母と私の食べる部分をカットして

残りを持ち帰るようにと渡されるのだが

私はその色と味とが苦手というか、大嫌いだった

 

小学校に入ると、通用門の脇に

赤黒く熟すと食べられるさくらんぼの実る木が一本だけあり

熟したその実は土手に上がると子どもの手も届いて

 

数人でその実を食べて、その甘さに感動して

その後担任の先生から物凄く怖い顔で叱られて

朝礼の最中ずっと立たされていた思い出もある

 

そして大人になり、会社の取引先の方の出身が

寒河江ということで純国産のさくらんぼを頂き

その色の美しさと甘さに感動して、幾枚も写真に納めて

ブログに披露したりした

 

もう一つ、夫がモンゴルに行っている頃

夫をモンゴルに送り出してくれた会社の社長さんが

アメリカから取り寄せてくれた、500円玉ほどの大きさの

レイニアチェリーを見た時には世界は広いと実感させられた

 

日本でもこのチェリーを売る店があるが

アメリカから直接送って頂いたほどに大きい

チェリーにはまだ出会っていない

 

こんなふうに海外の果物を見るたびに

その地に住む人々が羨ましくなってくる

 

そう言えば6月はライチの季節でもあり

 

6月になると店先でライチを売っていた聘珍楼は

無くなってしまっていたのだった

 

数日前に近くのスーパーであのチェリーパイの色をした

アメリカンチェリーが売り出されていて

 

いろいろな思い出が交錯しているのは

もうすぐに来る梅雨支度への憂鬱のせいかもしれない

 

そう言えば、私の手許にある衣笠祥雄氏のテレホンカードは

ハマのドンという方から親族が頂いたものだったとか

 

半世紀以上前の次姉の結婚式でお見かけした時と

テレビで報じられる姿がほとんど変わらない印象で

横浜に貢献し続けているということも

ある種鉄人の部類なのだろうと思う

これは昨年の6月12日に書いたブラジルでのお話

縁結びの聖人アントニウスの命日ということで

この日に恋人同士の写真を撮り、額縁入れて飾り

それを知った日本の全国額縁組合連合会が1988年に

この日を恋人の日としたのだとか

 

額縁と恋人と言えば

その昔、日本には写真の花嫁というものが有った

 

実際に知っているわけでは無く、本で読んだだけなのだが

 

写真を額に入れて、移民していった人の元に届けて

相手が気に入ればお嫁に行く

 

過去のブログを読み返しながら

先日、ブラジルに秋篠宮嗣太子殿下の内親王が赴かれたという

ニュースを聞いて、ずっと昔に横浜の港から移民船に乗って

移住していった新婚カップルのことを思い出した

 

私が小学二年生の頃だったと思う

 

港の見える丘公園から望む桟橋の船から

煙が上がると出航の時刻と分かり

見送るためにムジナ坂という細い坂を駆け下り

山下橋を渡り、大桟橋に向かう

 

そこでは多くの人が色とりどりのテープで

別れを惜しむ姿がある

 

一年生になり、病気の後遺症で足が曲がり

走れない私は、既に公園になった丘に行くこともなく

嘗てそこまでが波止場だった名残の

石と鉄の棒の欄干に腰を掛けていると

 

若い男女がカメラを持って日本にの思い出にと

写真を撮ってくれと話しかけてくる

 

結婚して、新居を構えて、ちゃぶ台が一つ

夕方には近くの店まで夫と二人で買い物に行き

それが私の新婚夫婦の想像図だった

 

しかし、1950年代の終わりから

1960年代半ばまで、大学は出たけれど

と言われるほどの就職難で有り、その為に日本では

移民政策というものが取られていて

 

この移民船が最後に出航したのは1973年

オイルショックの1年前

 

この移民政策が始まったのは1908年

 

明治41年のこと

この年には

日本の至る所で自然災害が有ったと書かれている

 

またこの当時は移住ではなく

珈琲園などでの労働が目的だったそうだ

しかし、不慣れなうえに隷属的な労働を強いられて

多くの人が逃亡を図ったとか

 


移民は、明治22に年に奈良県の十津川村が水害により

新しい生活の場を北海道に求めて集団で移動したとあったが

ブラジルにもまた村単位で移住する人が多くいたそうだ

 

第二次世界大戦に日本国民が加担した一番の理由は

寒い国での冷害による不作で、尚且つ都会には

今でいうホームレスが増えて行き

日本国内だけでは雇用の創出が出来なくなり

満州国を建て、八紘一宇政策でアジアの国々を支配し

 

それは全て国民を飢えから救う手立て

 

その為に多くの知識人を向かわせて

その国のインフラを整える

 

相手国に対して

悪いことをしているなどという気持ちは

微塵もない

寧ろ感謝されるべきと

 

犯罪でいえば確信犯だろうか

 

国民の総意でその状況を受け入れ

反政府的な新聞でさえ、第二次世界大戦という

末期の状態になると、国民を鼓舞するような記事を載せ

歌い手もまた、父よあなたは強かった、と

 

その頃は自由恋愛というものも

男女が並んで歩くことも禁じられて

 

テレビで放送されるような

女性が出征兵士を案じるような仕草をすれば

当時の市民警察から非国民という烙印が捺される

 

今は全てにおいて個人の自由だけれど

その自由がない世界が一つだけある

 

一族の長に認められない結婚をするときには

その一族と決別する

 

それは皇籍離脱で有り

一般の社会に皇籍から降下することであり

 

昭和の時代に宮家の内親王が自由恋愛をして

父親である宮様から皇籍離脱を逼られ

今は牛乳配達の人と暮らしているという記事を

週刊誌で読んだが

その人は

ご自身が亡くなられたとしても

皇族では何も報じないだろうと話していた

 

自由に人を愛するにはそれだけの覚悟がいるという

 

一方で長に認められて一族に祝福されて

一般市民に嫁ぐことで皇籍を抹消することを

臣籍降下というそうだ

 

その場合は、一族の公式行事にも参列し

生まれたお子さんもその一族の一員と見なされる

 

それでも、長となられた人の内親王が一般人に嫁ぐと

たとえ命に係わる病に罹ろうとも

長の元に帰ることは出来ない

 

そればかりでなく、たとえ成人していなくても

長になられた方の

お住まいに同居することは許されない

 

嘗て昭和天皇のお子さんが

余命いくばくもない状態の時に

昭和天皇はお見舞いに行くことも

お住まいに住まわせることも

認められず

降下した宮家の一つに滞在をさせて

病院に様子を見に行く

それさえもあるまじきことと

週刊誌で批判されていた

 

自分から望んだわけでなく

生まれた家がそうであって

そのシキタリに沿って生きている

それだけで有りながら

自由に恋愛し

自由に暮らす為には多くのことを諦める

 

このことを書きながら

山下公園の表通りでカメラの前

微妙な距離を開けて立っていた二人の男女のことを思い出し

胸が痛んだ

 

見合いして結婚して、同時に移民船に乗り

それまでは見知らぬ同士だった二人だけで

生活の為に見知らぬ国に行く船に乗る

 

自由に人を愛し、結婚し、住み慣れた国で家庭を持つ

当たり前のことが

本当はとても幸せな事なのかもしれない

 

中学生の頃

恋とは感情であり、愛とは行動である、と

ちょっと得意気に語っていた先輩がいたが

 

人生を顧みると、確かに恋とは己の気持ちの中にあり

愛というものは人だけではない多くの対象に向かっている

 

因みに中国では7月7日が恋人の日であり

スペインでは4月23日なのだとか