■ 2002/06/13 (Thu) YAHOOブログから
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私の手元に一枚のテレフォンカードがある。
そこには通し番号が打たれている。
そして、写っているのは
広島カープのユニフォームを着た、衣笠祥雄。
連続試合出場世界新記録を達成した記念に
後援会の方が作った中の一枚
どんなことでも、継続するというのは、なかなか難しい。
この場所に文章を書くことも
誰に決められたわけでもなければ
誰から頼まれたものでもない。
ただ、欠かさずに書くということに小さな喜びがある。
尤も、何も制約されず思いのまま綴っているから
続いているのだろうと思う。
文章を書く者にとって
一番辛いのは
新しい言葉が沸いてこない事なのかもしれない。
1946年の今日
「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」
「いつもお前たちの事を考へ さうしてメソメソ泣きます」
「子供は皆、あまり出来ないやうですけど
陽気に育ててやつて下さい」「津島修治」
そして最後に
「美知様 お前を誰よりも愛してゐました」と
妻に宛てた遺書を残して
太宰治は他の女性と玉川上水に身を投げた。
Out of our quarrels with others we make rhetoric.
Out of our quarrels with ourselves we make poetry.
他人との喧嘩から表現を覚え
自分自身との争いから詩を作る。
と綴ったのは、アイルランド生まれの 詩人W・B・イェーツ。
彼は1865年の今日、6月13日に生まれている。
夫婦を継続するには、多くの会話が不可欠なのかも知れない。
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太宰治はこの心中の15年も前に
鎌倉の腰越の小動岬で若い女性と心中を図り
女性の逝去で罪に問われている
私が最初に太宰の文章に触れたのは
中学の教科書に有った走れメロスだが
TBSのアナウンサーの安住紳一郎氏が
この文章の考察を述べていて
思わず、うん、うん、と肯いてしまうほど
有体に言えば現実離れした内容だと思ったことを思い出した
太宰の亡くなった日は桜桃忌とされるが
これは彼の最期の作品である桜桃という題名に寄せて
同じ三鷹に在住していた文人の今官一に命名されたのだそうだ
われ、山にむかいて、目を挙ぐ
の書き出しから始まる
桜桃は、吾子への遺言の書のようにも思えた
桜桃 さくらんぼ
そう言われて私が思いだすのは
横浜の山手警察署の対面に米軍のベースが有った頃
PXという米軍の人専用のお店が有り
そこに叔父の奥さんが勤めていた
PXとはPost Exchange の略だそうで
軍人専用のお店ということのようだ
なので全てにTaxが掛からず
市中で求めるものに比べてかなり安価で有り
その安価なものにホールでのチェリーパイが有って
叔母がいるときに母に連れられてその店に行くと
そのチェリーパイを一つ買い
母と私の食べる部分をカットして
残りを持ち帰るようにと渡されるのだが
私はその色と味とが苦手というか、大嫌いだった
小学校に入ると、通用門の脇に
赤黒く熟すと食べられるさくらんぼの実る木が一本だけあり
熟したその実は土手に上がると子どもの手も届いて
数人でその実を食べて、その甘さに感動して
その後担任の先生から物凄く怖い顔で叱られて
朝礼の最中ずっと立たされていた思い出もある
そして大人になり、会社の取引先の方の出身が
寒河江ということで純国産のさくらんぼを頂き
その色の美しさと甘さに感動して、幾枚も写真に納めて
ブログに披露したりした
もう一つ、夫がモンゴルに行っている頃
夫をモンゴルに送り出してくれた会社の社長さんが
アメリカから取り寄せてくれた、500円玉ほどの大きさの
レイニアチェリーを見た時には世界は広いと実感させられた
日本でもこのチェリーを売る店があるが
アメリカから直接送って頂いたほどに大きい
チェリーにはまだ出会っていない
こんなふうに海外の果物を見るたびに
その地に住む人々が羨ましくなってくる
そう言えば6月はライチの季節でもあり
6月になると店先でライチを売っていた聘珍楼は
無くなってしまっていたのだった
数日前に近くのスーパーであのチェリーパイの色をした
アメリカンチェリーが売り出されていて
いろいろな思い出が交錯しているのは
もうすぐに来る梅雨支度への憂鬱のせいかもしれない
そう言えば、私の手許にある衣笠祥雄氏のテレホンカードは
ハマのドンという方から親族が頂いたものだったとか
半世紀以上前の次姉の結婚式でお見かけした時と
テレビで報じられる姿がほとんど変わらない印象で
横浜に貢献し続けているということも
ある種鉄人の部類なのだろうと思う