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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

過去のブログについて

昨年の6月11日に再投稿したので

以前書いた団塊世代に生まれた夫の話を改めて載せたいと

 

夫は福島県の川俣から相馬へ向かう道路の途中

宮城県の広瀬川の支流を背にした農家の6男1女の

5男として生まれた

 

街道に面しているので

直ぐ近くにはいろいろなお店が有り

その屋号は、わくやとかぬりやとなっていたが

夫の実家は元々養蚕を生業としていて

その町は川俣の織物の下請けのような感じだったので

その屋号にはその頃のお仕事の名残が有ったようだが

 

そのことについて舅が詳しく教えてくれたのだが

何せ舅は何代にも渡る生粋な福島県人故に

私の頭の中には超音波のような

子守唄にも似た音声が流れて

何も覚えていない

 

辛うじて、この街が嘗て九州の地から

おで姫という姫を守って

流れて来た一族により始まったということと

その姫により

織物のスキルを学んだということくらいだろうか

 

イメージ的にわくやは何かの枠を作り

ぬりやは何か漆器に色を塗っていたのか

 

兎も角も夫の実家では当主が戦争で不在の内に

舅の腹違いの兄に家屋から田畑全て相続されてしまい

舅が戦地から帰るまで牛小屋で暮らすことになり

その後離れと畑を取り返し、夫はそこで生まれた、と

 

この街は東日本大震災の折に

放射能に汚染されて、避難準備区域と指定された

 

夫の母の実家はもっと相馬寄りで避難地域になり

十年以上経つ今でも行くことが出来ないそうだが

当時は既に住む人もいなかったようで

その後その土地がどうなったのかは

義兄からも甥からも聞いたことは無い

 

恐らく家屋は今は草木に埋もれ

自然に還ってしまっていることだと思う

 

この街がまだ汚染されていない頃

私は何度か姑が墓参りに行くのを送りがてら

その近くに行ったことが有った

 

途中、石油やガソリンを売る店が有るのだが

都会のそれとは全く違って、呼び鈴を鳴らすと

お店の人がサンダル履きで出てきて

慣れた手つきでガソリンを入れてくれる

 

そのお店にはお墓に飾る鮮やかな色の造花や

野菜の種やお味噌まで売られていた

 

イメージ的には乾物屋さんでガソリンを入れて貰う

そんな感じだろうか

 

乾物屋さんと言っても今の時代の人には

想像が付かないかもしれないが

 

そんな環境の中で夫は15歳まで暮らし

当時の一般的な農家の次男以降の習わしとして

義務教育を終えると

住み込みで働きながら高校に通うために

埼玉県の川口市にある鋳物工場に勤めた

 

私が高校生の時に石川町の駅まで行くだけでも

兄が早起きしてバッグを持って送ってくれたのに

 

15歳の夫はその日から他人の家で

それも列車で何時間もの距離にある

見知らぬ街で暮らす

 

なのに見送りの人は当時の担任だけという

 

地方で生まれた団塊の世代の人は

そうやって、集団就職用の列車で都会にやって来て

戦後の高度成長期の地固めをして

評論家に団塊という、如何にも雑な名称を与えられて

今は後期高齢者になっている

 

その後期高齢者の皆さんにはそれぞれに

生い立ちの記があることだと思う

 

夫と私の親族だけでも団塊世代と言われる人は

十人いる

 

その人たちが就職し

家族を持ち、家を建て物を買う

その絶好調の時代がバブルだった

 

800万の人口とその家族が一斉に消費する

それはまるでシャボン玉のように賑やかで美しく

しかし時が来れば儚く消えていく

 

故にバブルとは、蓋し名言だと思った

 

そのバブルの崩壊で日本の経済が崩壊したのは

そのバブルという現象を生み出した団塊の世代ではなく

そのバブルに浮かれて足下の見えなくなった銀行員と役人と

それに乗せられた消費者と

経営者達の、日本だけではない、貧しい国にを含む

世の中の動向に対する読みの甘さだと思う

 

 

納められた年金を元に投資をして倍増したお金で

訳の分からない建物を建てたり

他所の国の女性に貢いだり

雑な投機で元手を失くしたり

 

あの当時しっかりと利益確保していれば

恐らく今の時代の人達は老後の心配をすることは

無かったのではなかろうかと思うが

いまさらの話であり

 

我が子には自分が育った時代のような苦労はさせたくない

そして学歴と成績だけで人を判断する親とで

 

バブルの頃の労働力と消費の力とは程遠い今の時代

 

バブルという好景気の頃

家から一時間の通勤が大変だからと

遠方からの従業員用の寮に入れて欲しいと

知人を介して就職してきた若者

 

入所の日にその母親から

 

魚は嫌いだから

朝起きるのが大変だからと

多くの注文があり

 

結局一週間の滞在の後に外泊して

その翌日再び親から

仕事で汚くなる会社には

勤めさせられない、という電話が有った

 

その青年も元気でおられれば今60代だろうか

 

バブルや今の時代の在り方にいろいろと書いてみて

結局その時代のマイナス要素を生み出しているのは

それぞれの時代の人の価値観の違いなのだと思う

 

実際に

早期にバブルというマヤカシの好景気に見切りをつけて

若しくは元々の現金主義を崩さずに来た会社は

その大小に変わりなく今も健全な経営を続けている訳であり

 

どんな環境で育っても

時代や親に責任を求めず、自分の思う生き方をする

 

その道がどんな道であろうと

自分で踏みしめた新しい道

そこにこそ喜びを見出せるということなのだと思う

 

人の一生は長くても百年ほど

その一生で得た経験は

その命を費えた先には文字や映像で残ったとしても

その生きた中で得られた出会いや別れ、心の動きは

誰とも共有出来るわけでもなく

 

人の一生というものは凄く神秘的なものでもあると思う

 

そこに対価という価値観を求めるから

他人との比較が生まれて

幸不幸の判断が生じるのだと

 

自分の価値観を決めるのは自分自身だけで有り

他の誰にも決められることでは無いと

最近気が付いた

 

題名の霊山は夫の実家から相馬の海に向かう途上にあり

その近くに白狼を飾る神社が有るのだが

震災の年に出火し

当時地域住民が避難して不在のため消火が間に合わず

住職の奥さんが犠牲になり、下社が消失してしまった

 

政府の一つの判断ミスで、無くならなくて良いものが

失われていく

 

1868年6月11日(旧暦四月1日)には

政治の基である

三権分立の始まりの政体書が明治政府から発布されている

 

 

2002/06/10 (Mon) 横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

そして今日は、北陸トンネルが完成した日。

時とトンネル

…子供の頃観た

タイムトンネルというアメリカ発の

空想科学のテレビドラマを思い出す。

トンネルというものは不思議だと思う。

トンネルを抜けると、時には天候まで変わることがある。

また、恩讐の彼方の中では

開通と共に、親の敵を仇討つことさえ止めさせてしまう。

何処かで時という概念を超えてしまうのかも知れない。

タイムトンネルといえば

もう一つ、テレビの中で観たコンピューターの存在。

我が家の近隣で、電子レンジを購入したご家庭があり

そのお家で、その電子レンジを使われれると

その一帯が停電になった時代のこと。


テレビの中のその機械がまるで魔法の力でも

発揮するもののように思えた。

今、ここに来て

ノートを広げるようにパソコンを広げ

日本はおろか、世界の情報まで

即時に、on demandで得られる日が来ることを

あの頃の私には、思う術もなかった。

そして、メール通信というものは

電話よりも古くに発明されたという

FAXでさえも凌駕しつつある。

FAXといえば

あまりに同じ原稿が届くので

機械の故障かと思い、電話で問い合わせると

何度送っても、元の原稿が送付されないという

不思議な返事を上場会社の社員から頂いたことを

時折思い出す。

彼は一体どんな面持ちで

送っても送っても戻る原稿を見ていたのだろうか。

随分悩まれたあとに受け取った電話だったようで

彼の疑問は即時に解決し

ああそうなんですか!という大いなる納得と

大笑いの声を残して切れた。

私はそのとき思ったものだ

電話一本下さればいいのに。

ウン、時は金なり、だと思う。

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子どもの頃テレビの中で見たコンピューターは

飛行機のコックピットのように壁一面に収まり

 

その後黒いスーツケースに収まって

諸君、というセリフでスパイを管理して

 

そしてメールは

東京の出版社から横浜の輸出入の代理店にトラバーユした頃

検品のために検数協会に行った時に見た記憶では

 

大きなドラムに紙を巻き付けて送受信して

それを読み込んで文字に起こす、そんな感じだったと思う

 

そのコンピューターはそれから20年後には

人々の中に当たり前に存在していた訳で

 

種の起源から始まる人類の中でのこの二十年の進歩の速さは

恐らくこの先もそうは起きないのではと思う

 

そしてもう一つの北陸トンネルというと

多くの小説の舞台になり、その背景にあるのが北陸本線と

鯖街道と木の芽峠と日本海

 

山本周五郎の虚空遍歴、松本清張のゼロの焦点

そして小泉八雲の高野聖などを読んで

その背景にある今庄、そして木の芽峠を実際に観たくなり

母が生前、永代供養をお願いして瓦を寄進した永平寺を

第一の目的として出かけたことが有った

 

その敦賀は嘗てロシアとの貿易が盛んであった頃の

名残として瀟洒な建物が多く、また雪が深い故なのか

海外の文化が早々に入っていたのか

私が横浜では見たことの無いような造りの家が

たくさん建っていた

 

敦賀の市場で蟹を買って自宅に届けると

そのレジ袋に原子力のマークが付いていることにも

正直驚いた

 

自分達の生活が矢のような速さで便利になっていく裏側で

常に原子力発電所という危険要素を抱きながら

暮らしている人々

 

家に帰り、煌々と明りの灯る事務所を見た時

改めてこの電機は多くの人の生活を脅かして

ここに届いているのだと実感した

 

そうでありながら

東日本大震災で崩壊した発電所により

 

何度も繰り返された計画停電や電気代の高騰を実体験して

それを凄く不便に思ったり不満に思う自分自身に対して

慣れというもはこんなにも身勝手で恐ろしいものだとも

しみじみと実感した

 

それは今の米騒動にも似ているように思う

 

以前のレシートによると

安価なお米は10キロで2000円台

それも、福島のお米は検査をしての出荷だから安全だと

どんなに説明しても売れ残っていて

またその頃に五キロで五千円以上のお米もあり

 

安価なお米のブランドはずっと変わらない

 

そのお米をも買えない人は生活応援米という

各店舗で独自にブレンドしたお米が売られていた

 

嘗て勘違いして定期が無いと思っていた私は

その生活応援米という安価なお米を買ったことが有るが

 

そのお米は農家で売り物にならないか

各店舗で売れ残ったりして回収したか

野菜を作る傍ら親族だけが食べられるほどのお米を

作っていた義兄が時折送って来るのと同じような

未成熟と思える米も含まれて

 

粒はそろわず

笊に入れると目から抜け落ちるものや

欠けているものもあって

 

炊きあがる香りも無ければ、お米独特の弾力も無い

とはいえ、白米であるというだけのもので

そこに美味しさを求めるのは場違いな感じがした

 

今売られている備蓄米は、それなりの検査を受けた

成熟したお米で有り

嘗ての生活応援米とは全く質が異なると思うのだが

 

近くのスパーでもその備蓄米を生活応援米として

売り出すようになったが、我が家では買わないことにした

 

本当にその価格でお米が欲しい家庭の人に買って貰いたいから

 

そしてこの機会に、嘗ての世の中の大半の女性が目指した

お米を控えるダイエットに勤しもうと思うから

 

この、お米が無い、か、有っても高い状態は

嘗て回転寿司や丼物のお店でご飯を残した人たちには

絶好のチャンスだと思えるけれど

 

今海外では空前の日本食ブームで

特に丼物が好まれているとか

 

農家の人にしてみれば

高いお米を買わない

若しくは買っても日に何千トンも食べ残す日本人よりも


少々運賃が高くても

たくさんお米を買ってくれる海外市場の方が

何倍も有り難いと思えるのではないだろうか

 

多くの日本人は

心の何処かで米農家の人々に対して

日本で作るお米は日本の市場で売って当たり前

安く提供して当たり前

と思っているのではなかろうか

 

そんなふうに思える

 

例えば会社でも、工場でも、個人的にでも

懸命に働いてその対価や評価を正当に得られなかったら

誰しも、正当に評価して対価を支払う側や

評価してくれる人を選ぶと思う

 

今はスマホ一台でほとんどの用事が足りてしまうほど

文明や文化は矢のような速さで進化している

けれど

巷で品不足という現象が起きるたびに

人の心は進化も成長もしていないように思える

 

最低賃金を上げて欲しいと言いながら

お米造り農家の人達の

最低賃金というものを考えたことが有る人は

どれくらいいるのだろう

 

そう言えば、前回の米騒動の時に

学校や個人でお米を栽培したり

休耕田に集団で赴いてお米造りをしたりした人々がいたけれど

今回はどうなのだろうか

 

備蓄米という古米より、自作米の方が美味しいかもしれない

■ 2002/06/09 (Sun) 横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

久し振りに海に行った。

風は風速十メートル弱

セイリングには少し危険かも知れない。

真っ白な船は帆を下ろし

天までも届きそうなマストは絶え間なく揺れている。

その日、城ヶ島を出た船は

港まであと少し、というところで、

エンジントラブルを起こし、漂流した。

港ではなく、沖へ沖へと流されてゆく。

動力を失った船は、板切れのそれに等しい。

潮に翻弄されて、右へ左にうねる。

船室で子供と過ごすその頭上を、夫達の足音が、絶え間ない。

その時、外に出ませんか

と声があった。

行くと、遠くに帆船が

まるで一つのビルのように大きく聳えていた。

シナーラだ。

シナーラ(海の星)は

1927年にイギリスで作られた元英国王室船。

別名を海の貴婦人という。

天地四方青一色の中を、真っ白な船体が、
同じく真っ白な帆をいっぱいに張って

、ゆっくりと進むさまは、確かに美しい。

二人の子供が同時に声をあげた。「美しいね」

それまで、子供たちが心配で

岸に着くことばかり考えていた自分は

あのシナーラを追って、帆走したくなった。

仲間達もまた同じことを考えていたのだろう

皆、一様に、
波の向こうに消えていく白い船を見送っていた。

気が付くと、風が私たちを港に運んで。

接岸し、船から下りると

誰からともなく、おめでとう、と声があがった。


夕方の涼しい風に吹かれながら、無事に帰れた喜びを思った。

横浜海上救難施設が

アメリカ軍の接収から解放されたのは

1967年の今日のこと。

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一昨日ニホンマルの引退のニュースが流れ

みなとみらいの

桜木町の駅前に停泊している船かと思って

展示の引退なのかと、がっかりしたが

実際は帆船ではなく、観光客を乗せるクルーズ船だとか

 

来年六月に最後の航行を終えて

35年の歴史に終止符を打つと

市の観光サイトに書かれていた

 

港に船

 

その船に国賓級の来客があると、私が小学生の頃まで

たぶん、海軍の鎮守が有った野毛の皇大神宮の境内だと

思うが、そこから空砲が撃たれ

父はその空砲の数でその日の来客の階級を

嬉しそうに話していた

 

その時は21砲

皇太子級の方が見える、と

 

その後ニュースで

当時トルコの皇太子がお見えになったと告げて

 

喜怒哀楽を表に出さず、気持ちの読めない父が

珍しく微笑んでいたのを思い出す

 

そしてその後、本で

航海の途中で亡くなった方は

海に、水葬という形で葬られて

その際も空砲が撃たれて、その数で階級が分かり

周りの船からもその階級に見合う弔意の砲が撃たれる

ということを知った

 

残念なことに私が空砲を聞いたのはその太子の来日の時の

空砲だけで、後は記憶にない

 

その船が付く桟橋のある横浜港は

その昔、日本の開国を求めてペリーが来日したことに

始まる

 

横浜海上救難施設については、今海上保安庁のある

場所に建っていて、戦中迄海軍の管轄下にあったようで

何時設営されたかとか

詳しい内容を見つけることは出来なかった

 

今は海で事故に遭った時は118番に電話をすると

助けてくれるかもしれない

 

私の義兄は10年ほど前に手作りのヨットでハワイを目指し

外洋に出てすぐマストが折れて

海上保安庁に助けて貰ったと新聞に載っていたから

外洋に出でも助けてくれるのかもしれない

 

海の貴婦人と言われたシナーラは1927年に

イギリスで作られて

 

日本で唯一のレストア、船の復元作業を

11の国々からの技術者ゐ召喚して終えて

三浦のシーボニアに停泊しているとか

 

一生に一度は行ってみたい観光地という言葉があるが

 

残りの人生でもう一度

全ての帆を張ったシナーラが

遠い青一色の中に現れる巨大な城のような帆を

富士を背に三浦の海を走る姿を

 

帆走するヨットの上から見てみたいと思う

 

そして願わくば水葬は無理だろうから

帆船によって大海原に散骨して貰えたらと

夫と私は子ども達に頼んである