2002/09/10 (Tue)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから
去来と、いっても、
時もし去來の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去來の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。
の去来ではない。
向井去来、松尾芭蕉の門下生で、十哲の一人。
のちに去来抄、というものを編纂し、芭蕉俳論というものを確立させた。
去来、といえば、嵯峨野の落柿舎を思い出すが、この建物は、春よりも、夏よりも、冬よりも、やはり秋の愁いの似合う佇まいをしている。
そのような中で、
山も時なり、海も時なり。
時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。
時もし壞すれば山海も壞す、時もし不壞なれば山海も不壞なり。
この道理に、明星出現す、如來出現す、眼睛出現す、拈花出現す。
これ時なり。
時にあらざれば不恁麼なり。
などと念じながら座禅を組むのも、満更ではないかも知れない。
そういえば、落柿舎の先には、哲学の道もあり、去来も十哲のひとり。
去來の相にありし、かな。
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*不恁麼(ぶにんも)は、AIによると
「不十分な重視、無関心」という意味です。 「恁麼(いんも)」という言葉は、中国の五代以降の口語に由来し、「このように」「そのように」「こんな」「そんな」といった指示を表す言葉です。禅宗において重要な言葉であり、「何とも名づけられないもの」「どうしようもないもの」を指すこともあります。 「不恁麼」は、「恁麼」の否定形として使われることがあり、禅問答などでは「恁麼でもなく、不恁麼でもない」といった形で、言葉では表現できない境地を示す際に用いられます。
ということだそうだ
所謂蒟蒻の裏表を競うようなもの
その禅問答を揶揄(やゆ)しての
蒟蒻問答という古典落語がある
そこに出て来る六兵衛は
後に三谷幸喜の芝居の清須会議に
架空の人物更級六兵衛として出席している
蒟蒻問答とは少し話が違うが
最近、ネットでちょっと驚く動画を見つけた
私が子育ての頃、お手頃価格の手羽先で
チューリップのような形の唐揚げを造るのが
流行った
やり方は簡単で、への字の手羽先のへの字を
逆にすると、二本の骨が見えるから
力が有ればそのまま開いていくと
骨が現れ、その二本を引っ張り出し
細い方を取り除き
太いほうの肉を片側に寄せて
その先の骨のある部分を切り落とし
唐揚げにする
骨が見えた時点で力が無ければ
先に少し切り込みを入れると楽に出て来る
極めてシンプルな料理
それを、料理家と名乗る方が
手羽元を使い、包丁で肉を云々と
鶏肉は柔らかく、切れにくい
その上手羽元の骨は
手羽先より太いので
火の入りが遅く
冷ました時点で骨から染み出た
火の通ってない液が
揚げた肉に付いてしまう恐れもある
そのことを動画の主に問うと
自分の記憶では
以前お店で売られていたチューリップは
これが正しいのだと
そこで思い出したのが
戦争が終わって世の中が落ち着き始めた頃の洋行帰りという料理教室の講師の話
たしか
スパゲティは麺をケチャップで和えたもの
だったと思う
そんなふうに教わった生徒たちが
先生の恩に報いるために
ハワイでの親睦会をということになり
そのホテルのレストランで出て来た
スパゲティを見て驚き
講師に聞きに行くと
私はそう習ったのだと言い切った
そんな話
実際の話、今現在
手羽先を
チューリップとして加工されたものは
ネット上でも300g
400円ほどで売られている
それでなくても
一本百円ほどの総菜
日に何十本も売る品物を
いちいち包丁でこそぐなどという
手間暇をかける訳が無いと思うのだが
そのうち
蒟蒻には裏表がある、と
そんなふうに言われる
時代が来るのかもしれない
因みに我が家では
子ども達の運動会に
二キロの手羽先で作った唐揚げを持参して
ママ友たちから旬の果物を
たくさんいただいた
とても美味しい思い出がある