自分の思うがままに生きたいのなら、まずは己の心をよく律することが先決だろう | LEO幸福人生のすすめ

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「各人、自分の思うがままに生きればよい」

 

こんな考えは間違っていますね。一見もっともらしく聞こえる。他の誰でもない、自分自身のことなのだから、他人の考えに左右されるのではなく、自分の生きる道は自分で決めるべし、自分の考えに従うべし! と

 

しかし、上の主張には、根本的に欠けている部分がある。その人が、他の人に迷惑をかけないような立派な人格を持っているか、優れた判断力を持っているかどうか、というチェック基準が抜けている、ということだ。

 

自分勝手なエゴイストのワガママ人間が、俺は自分の思うがままに生きるのだ、自分の人生なのだから自分で決める、他人の意見には左右されたくない、自分の生きる道は自分で考え、自分で決め、そうして自分の判断で歩んでいくのだ、とこの人物は言う。

他人に迷惑をかけようが知らぬ存ぜぬ、自分勝手でやり放題、社会的な常識やマナーなどまるで無きが如しのかような人物が、自分の思うがままに生きられてしまったら、周りの人間は大迷惑である。

 

自分のことは自分で決める、他人の意見に左右されずに、自分のことは自分で決める、自分の考えを最終的な拠り所とする、という主張は、その言っている当人が、どれほど自身の人格を陶冶しており、道徳的にも正しい生き方が出来る人間であり、他人への配慮の気持ちを持った人間であるか、にかかっている。

自己中、自分勝手、利己主義者が、おのれの考えるままに生きる、などということが許されてしまえば、世の中には、自分勝手で他人の迷惑を顧みないワガママ人間が跋扈することになるだろう。安心して暮らせる社会は成立せず、他人を信用するのは危険である、といった世の中になってしまうことだろう。

 

以前、悪魔崇拝に関して書いた記事でも触れたが、

 

 

黒魔術の提唱者として知られるアリステア・クローリーなる人物は、汝の欲することを為せ、汝がしたいように為すことが許されることこそが真実である、と言うような邪見をのたまって、世を惑わしたそうだ。

自分にとって何が得られるか、この自分自身、この個人こそが大切であって、その個人の自由は何人にも侵害されない。個人の自由、己の欲するがままに生きよ、生きてよいのだ、という主張。

これは、悪魔の主張以外の何者でもありませんね。

先にも指摘したように、他人の迷惑を考えない、道徳に未熟で身勝手な人間が、己の願うままに生きてよいのだ、などということを許されてしまえば、社会には有害で危険な行為が蔓延して、こうした邪悪なるエゴイストの被害者は続出することでしょう。

己の思うがままに生きるがよい、己の信ずることに従って生きるのが善である、という主張を成立させるためには、その個人、その当人が、絶えず自らの精神的向上を図り、自らをよく律して治め、他人に対して害を加えない、そうした優れた人格を築くべく、日夜自己修業に励んでいること、を最低条件とするものだと、わたしは思う。

己を律する努力を放棄して、自儘に好き勝手に生きたいだけのワガママな人間が、その自分の思うがままに生きてよい、などという命題は決して成立させてはいけないし、宇宙の理法の中でも通用しないであろうと、わたしは信じるものだ。ワガママ勝手は許されない、それを行使して他人に害を与えた場合は、それに倍する反作用を受けて、魂としての罰を受けること必定である、それが宇宙の真実だとわたしは思っている。

 

悪魔崇拝者は、基本的に言って、みな利己主義者である。自分のことしか考えていない、自分の利害損得しか考えていない。他人の幸不幸など眼中に無いのだ。あるように見せてもそれは見せかけにすぎず、その人の本心を喝破してみれば、自分の事しか考えていないエゴイストであること必定である。

そうした利己主義者は、己の欲望、己の願望、己の思うところに従って生きることこそは良し、といって、自我我欲を正当化し、そうしたエゴイスティックな心こそは、悪魔の格好の餌食となる。

自分のことしか考えていない身勝手な利己主義者ほど、悪魔からしたら操るに容易も容易な相手はいないであろう。自己中精神を増長させれば、それだけ悪魔の手先として操られるがままになるのが、こうしたエゴイストの成れの果てである。

こうした悪魔崇拝につながる利己主義、個人主義の正当化は、他の人を愛するという行為を偽善と見、きれいごとの嘘であるかのように言いたがる。だから悪魔崇拝者が、キリスト教の愛の思想を否定して、それに対するアンチテーゼの如く、自分自身をのみ愛せ、己の思うがままに生きることこそは正義、と主張するのは、まさに天使の正反対であるところの、悪魔の主張そのものであろう。

 

前掲記事にも引用文としてあるように、こういう身勝手な利己主義には、何の規則も何の規制も要らない、と黒魔術師のアリステア・クローリーは言う。この人物こそは、悪魔の手先以外の何者でもないと、その主張を見て、わたしはそう判定する。

 

汝の欲することを為せ、それがすべての法になるであろう。

 

これを別の言い回しで、いかにも尤もらしく言いつくろったとて、言っている趣旨が同じことなら、その人物は霊的に言って、間違いなく悪魔の手先と言って過言ではあるまい。

自分の欲するがままに生きたまえ。あなた自身の人生だ。他人の判断や意見に耳を傾ける必要は無い。あなたの人生の責任をだれも取ってくれやしないのだ。あなた自身しかあなたの人生の責任を取れない以上、あなたはあなたの判断をこそ最優先して、誰か教祖の言葉だとか、先輩や先生の言葉などに従う必要もなく、己の信じるががまま、己の納得する道をのみ突き進めばよいのだ。

もし、そのようなことを言う人がいたなら、この人は、その人物がしっかりとした判断力を有し、道徳的にも正しい行動が出来る人間であるかどうか、他の人を害することなく、己をよく律する人間であるかどうか、という基本前提を、きちんと述べているかどうかに注目したらよい。

いっさいの条件抜きに、ただ単に、己の信ずるがままに生きてよいのだ、己の良心に従って生きればそれでよいのだ、と言っているだけならば、この人の主張は悪であり、間違いであると、わたしは断定しますね。

これは、自我我欲の正当化に過ぎず、己を正すための努力を欠いたままの身勝手な人間であっても、そのままで好き勝手に生きてよいのだ、と言っているのと変わらないからです。

己の良心に従って、などといって、いかにもまっとうなことを言っているように見えて、その人の言う良心というのは何であるか、単に自分の心からの欲求、願い、心の声をもって、良心と名付けて美化しているにすぎず、よくよく分析してみたら、この人の言う良心というのは、単なるその人の自我我欲、身勝手な欲求を、良心と読んで美化しているだけのことであって、良心とは何かすら全く理解しないままに、身勝手な生き方を勧めているに過ぎないからです。

 

心をよく治めるための努力をしている人、し続けている人、道徳的なる自己完成を確かに歩んでいる人にして初めて、己の思うがままに生きるがよい、という命題が、当人の悟りに比例して、ようやくにして許されるようになってくる、というのが真実だとわたしは考える。

ルドルフ・シュタイナーは、霊的真理や神秘思想に通暁すればするほど、それに劣らぬほどに自分を道徳的によく磨く鍛錬をしないと、人は容易に黒魔術の世界に取り込まれ、転落する、というような指摘をしていました。

エゴイストが霊的真理を知れば、それを自分のエゴ目的のために悪用するようになるでしょう。利他の思いがないままに、身勝手な利己主義者が超能力を手にしてしまったら、その能力を自分の欲得のために利用することしか考えない、愛の気持ちが無ければ、他の人のために世の中のために、などという動機に走ることなく、自分だけの欲得のための、他人の心を盗み見て悪用したり、そうした悪い使い方をするようになる、ということかと思います。

 

利己主義や個人主義は、その前提として、世のため人のために生きてこそ、人は社会的動物たりえる、という基本中の基本を忘れてはいけない、ということだと思います。

利他の思い、愛の思い、世の中のために貢献したいという、そうした愛他利他の思いを心に抱いている人が、己をよく磨くために独りこもって修行をしたり、あるいは他人の言動に惑わされず、自身の内面に深く沈潜して、己の心の奥底の本心をこそ問う、というのが真実の在り方で、こうした心構えが無いままに、単に自分のみの成長発展だけを望むエゴイストが、真理知識や神秘思想を中途半端にかじっても、生悟りに終わるか、あるいは黒魔術の虜となって、魂として転落していくか、いずれかになることでしょう。

己に厳しくあらねばならない。利他の思いを決して外してはならない。汝の欲するがままに成せばよいのだ、などという邪見に惑わされては相ならぬのだ。