各人、自分の心を治めること、その上で社会の改善に努力すべきこと | LEO幸福人生のすすめ

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「個人が救われる」ということを、軽佻浮薄な思想とみなす傾向が、マスコミ文化人には根深くある。少なくとも、現代日本においてはそうだ。しかし、国家の政治や経済や教育を変革する「マクロ(巨視)」(?)的な試みが、短期間のうちに破れ、個人に光をあてる思想こそが、数千年の歴史を脈々と生き続けてきたことが歴史の真実なのだ。根源的なる思想は、いつも個人の生き方から説き始め、歴史を検証しつつ、未来社会のデザインへと進むものだ。

 

 

「奇跡の法」のあとがき。これも肝に命じておきたい根本中の根本のところだと思う。

 

いくら素晴らしい制度改革、政治改革、教育改革を行おうとも、大抵の外面的な改革は、100年も経たないうちに形骸化し、そもそもの精神をすら失うこと、明治以降の日本史を見るだけでも歴然としている。

明治期に次々と作られた学校たち、そこで熱意をもって教えた初期の先生たち、その教えを受けて成長していった若者たち。

そうしたかつての名門校が、今となっては単なる名前だけの知名度のみ残って、中身の教育自体は無内容と化している。かつての偉大なる教師とは比較にもならないような、教える能力すら無い教授たち、ただ卒業証書だけが欲しくて入学し、授業にも出ず試験のみをパスすればいいのだ、といって卒業していく大卒たち。明治期に作られた時には、そんな無内容な教育システムではなかったろうに、100年経たずに中身は空っぽと化しているのだ。

制度などというのは所詮その程度の短い期間しか続かないものであって、だから結局は、政治改革にしても教育改革にしても、いかに大仰な改革を行おうとも、そんな外面だけの変革は本質的な人間の変容を伴うことは無い。

結局、そこに生きる個々人が、自分自身を改める、各人が自分という個の存在に責任を持って、社会的にふさわしい、倫理的にも完成された人間となるべく、各人が修行をする以外に、すべてを根本から変える力とはならないのだ。

 

2000年前の政治家や教育者で、現代にまでその名が轟いている偉人がどれだけいるだろうか? 岸田政権があれこれ政策を発表して断行しようとも、そんな改革は100年後の人たちにすら振り返られることすらない、小手先のその場かぎりの政治屋稼業の奔走に過ぎないのではあるまいか。

2000年前2500年前に、人類の心を改善するための教えを説いた人たちの心の教えは、現代に至るもいまだ尊敬されつつ、学ばれているはずだ。

個人を救う思想、個人の心を改めるための教え、こうしたものこそが本源的に尊い、本質そのものの人類への啓蒙手段なのであって、それ以外の政治や教育その他のこの世的改革は、二義的なものにすぎない、補助的な役割を果たしているにすぎないということを理解して、人類は聖賢の教えにもっと耳を傾けて拝聴すべきなのだ、と思う。

 

制度がいかほど形骸化しようとも、そこに生きる個々人が、自分をよく治め、自分を律して、他の人のために貢献し、道徳的にも優れた生き方をする人で満ちていれば、制度の腐敗や堕落を乗り越えて、人間はさらなる向上を目指して、さまざまな営為活動を行うことができるのだ。

その反対に、いくら制度を完備しようとも、そこに生きる個々人が、己を治めることを忘れ、自儘で好き放題に生きて、道徳心の欠如したようなエゴイストで満ちれば、その社会は崩壊するだろう。

大切なのは常に、そこに生きる個々人に帰するのだ、ということ。世直しにしても、政治行動にしても、教育の刷新にしても、制度を先に作れば何とかなる、のではなくて、そうした改革に身を投じる人間自身が、まずは自分自身を改革し、至らざるは改め、未熟なる自我を反省して、そうして世のため人のために生きられるような、そうした道徳的にも優れて立派な人間になることが、先決なのだ。

 

己の心を治めることもしていない人間に、どうして他の人たちを活かすための政治が行えようか、優れた教師たりえようか。自分づくりをしていないような人間には、世の中を治す知恵など有るわけがないし、備わってもいない、というのが真相であろうと、わたしは思う。

政治に身を投じるのなら、同時に、自分の心もよく治める、という日常を送っていなければならない。己の心をよく治めることの出来る自制心のある人間だからこそ、社会に何が必要で何が不要であるかを判断する知恵を持つことが出来るのだから。

過去の政治家で、真に偉大であると尊敬されている政治家は、かならずや、その人自身、心をよく治めて、道徳的にも優れた人格を備えた人物であったこと、そうした人格無くして偉大なる政治家として讃えられているような人物はいない、人格お粗末ならいかに大きな政治的仕事をしたとしても、その人は単なる俗物政治家もしくは政治屋という程度の評価しか受けていないことだろう。

 

自分自身の心を治めることは、他のあらゆる職業においても、普遍的に共通して与えられている課題であると、わたしは思う。よき仕事をしている人は、その人自身、自分の心をよく練っている人であろうと思う。単なる技術や経験量によるのではなく、最終的には、その人の人格の力、魂の総合力、底力こそが、真実のその人の力として働くものなのだと、わたしは思う。

だからこそ、すべての人が、各人、自分に与えられた個性としての使命を果たすこと、責任を自覚して、自分の心を磨くことが寛容なのである。道徳的な完成のみならず、宗教的人格としても出来得る限りの向上を目指すこと。常にここに原点回帰しつつ、世直しは始められなければならないと、わたしは思う。