本当に価値ある内容ならば、他の人にも役に立つはず ~独りよがりにならないために~ | LEO幸福人生のすすめ

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例えば職場では、他の人からの信用を勝ち得ているか、信頼されているか、一目置かれているか、きちんと仕事をこなす人間としての評価を得ているか、人柄はどうか、好かれるような人柄を示し得ているか。

こういう他者からの評価、というポイントを見失わないことで、自己の客観視を絶えず行なうことが必要だと、わたし的には考える。

 

これが、他の人からどう思われようと関係ない、といって、自分の生き方は自分で決める、自分が納得できればいい、なんて考えの人は、十中八九独りよがりに陥っているもので、自分でいくら自己満足していようが、周りからは煙たがられる、なんだあいつ、などと思われているようなら、その人は社会的存在としては落第だと、わたし的には判定しますね。

なぜなら、他の人と相和すことの大切さ、協調性の大切さ、ということに完全に無頓着なままに、自己中心の人生をおくっているだけのことだから。

そういう人は、他の人と協調して何かを成し遂げる、とか、助け合って何か事を為すことの喜びだとか、そういう幸福は知らずに終わるに違いないですからね。

 

他の人と相和することが出来ずに、遊離している、ということは、それだけ自分本位の発想ばかりで突っ走っている状態なわけで、これはどこかで舵を切りなおして人間関係の修復をする努力をしなければ、歳を取れば取るほどにますます偏屈となって、いっそう周囲から疎んじられることが多くなる、そういう危険性が高い生き方だと、わたしは思いますね。

もっと、周囲の人から敬愛される、尊敬される、あるいは一目置かれる、信頼される、頼られるような人格者となる、という点をよく考えて、その重要性に開眼して、人間関係を豊かにできる力もまた、魂の属性としては非常に重要な要素なのだ、ある意味でもっとも重要な人格の基礎部分なのだ、ということに気づかないといけないのでしょう。

 

自分の考えが、独りよがりの偏屈なものでないかどうか、というのは、たとえばブログ記事を書いたりすることでも、読者たちの反応、という形で明確に表れるものですからね。

ひとり孤独に自分の内面を磨いて、掘り下げて、そうして自身の考えを練る時を持つことは重要。けれども、それを外部に発信して、たとえばブログ記事やTwitterなどで発信した際に、賛同者がほとんど現れず、誰にも顧みられない、一度読んでもらったとしても、なんだ大した内容じゃないな、独りよがりの不平不満や愚痴、屁理屈に過ぎないではないか、と判定されてしまったら、愛読者などはつかないでしょう。

たまにしか発信しないのなら、注目されず気づかれないのも仕方がないけれども、大量に文章を発信しておりながらも、誰からも注目されない、賛同されない、支持者が出ないということは、その人の言論に、他の多くの人を引き付けるだけの魅力が無い、他の人に影響を与えるだけの値打ちのある内容などはまだ備わっていない、ということの証明だと思いますのでね、大量に意見を言っても誰からも相手にされないのなら、そんな自己満足と自己顕示欲を満たさんがためだけの私見の垂れ流しは、無意味であり無価値であると自覚すべきでしょう。

そうして、そんな発信をする前に、自分としてもっと他にやるべきこと、心をさらに深く掘って、他の人の参考になるような意見レベルが出せるところまで、自分をゼロから磨きなおすことこそが肝要だと、わたしは思いますね。

 

自分個人の日々を振り返ってみれば、同僚たちからの信頼は得られているだろうか? と考えてみるに、ランダムに質問したら、ああ、レオさんは信頼できます、信用できます、仕事もちゃんとやってくれるし、頼んだことは期日前に終わらせてくれるし、仕事は早くて的確だし、一緒に働いている人たちのことも考えながら仕事をしてくれているので、一緒に仕事をしたい人ですね、という人が多いと思いますよ。自分で言うのも何だけれど、まぁそういう評価が基本されていると思いますね。

特徴としては、とても優しい人、職場でいちばん優しい、と色んな人から言われるし、他の人への優しさ、愛を与える生き方が大切、というのを自分としては人生の一大モットーとして中心に置いているので、そういう他者評価のなかで仕事が出来ることは、自分としても納得の出来る、自分自身の客観評価を確認しながらの、日々の修行、人生が出来ているかなという確認の意味でも、そういう現状がいまの自分のスタイルだと自覚しています。

知に関しては、これは自分の内面を磨くという意味で、日夜、必要だと思う知識を吸収して勉強するのが日課だし、それを何十年も続けているけれども、知を前面に押し出して生きる、ということは自分としてはしていないし、このあたりはオブラートに包んで、というか、必要に応じてときたま出している、という程度のものですからね。

第一に、愛に生きること、その下支えとしての知は自己修業として当然やるべきこと、しかして、知を衒ったり、知ったかぶりをしたがったり、なんてさもしい生き方は恥ずべきこととして、そんなことで目立っても意味は無いと思っているので、時と場合に応じて、自分の知は開く、そんな生き方をいまは好んでしていますけどね。

それでも、何かの会議で意見を言ったり、大勢の意見をまとめて統括したり、あるいは何か問題が起きた時に、どこに根本の原因があるのか、それをどう改善したらこの問題は一番良い形で解決へ進むのか、といったことを考える際には、バンバン思うことを述べたりするので、レオさんはここで一番頭がいいんじゃない? 天才だなレオさんは、などと、しばしば色んな人から言われます。言われても、いやぁ天才じゃないよ、と否定しないところが、我ながら良くない癖ですが、学生時代から知力はやたらと評価されるので、褒められても、いやぁそんなことはないですよ、という謙遜の言葉が出てこないんですよねー、なぜなら心の中で、まぁそうかな、とか自分でも思っちゃってるから(笑)。

という話は置いておいて、だから私としては、より善き人間関係を構築できているかどうか、というのが、自分がきちんと磨けているかどうかの、いちばんのチェックポイントですね。

他の人に優しく生きているかどうか、その証明して、他者からそのことを喜ばれるような、そこまでの奉仕の生き方が出来ているかどうか。

他の人から信頼されること、慕われること、好かれるような人柄になり得ていること、笑顔と明るさ、楽しい場を作れる存在となり得ているかどうか。一目置かれたり、尊敬されたり、頼られるような人格たりえているかどうか、ということ。

人間完成の極意、魂の成長度合いをもっとも正しくよく測るための秤は、他の人とのより善き人間関係が築ける自分であるかどうか、ということ。ここにもっともよくあらわれるものだ、と自分としては考える。

それから、知というのは、そうしたより善き人間関係を築くための、そうした大本の基本前提としての自己確立ですね。識見の高さ、思考力、判断力、決断力、洞察力、その他、むずかしい問題が出た時に、他の人たちと協力する中で、自分の知力でもってどれだけの貢献が出来るか、ということ。

知識は沢山所有しているからといって、それだけで偉いということにはなりません。他の人のためにどれだけその知を使うことが出来るか、多くの人たちと世の中のために役立つ、そうした貢献度の高い知の転用が出来るかどうか、ということ。これが出来なければ、いくら沢山の知識を所有していたとしても宝の持ち腐れで、その人が死ねば、誰にも何の役にも立たずに消えるだけのこと。そんなものには価値が無いので、やはりどれだけ世の中に役立つ働きが出来るか、自分がいる場で、家族のなかで、職場のなかで、社会のなかで、その自分の知識や知力がどれほどの貢献度を持っているか、他の人にとっても価値を有しているか、役立っているかどうか、そういう観点でもって、自分の知をも客観的に判定して、その有効性、有益性のチェックを行なう必要があると思います。

愛にしても、知にしても、独りよがりであってはならず、そこには必ずや、自分以外の他者がいるはずで、愛にしても知にしても、他の人にとって役に立つ意義の有る愛であり、知である必要があるはずなんですよね。

単に自分の頭の中だけの独りよがり、自分のみがわかったつもり、価値のあることをやっているつもり、なんてのでは通用しない。それが本当に価値のある内容を持つのなら、かならずや具体的なる誰か他の人にとっても、価値のあるものである証明がなされなければ、意味は無いと思うわけです。