自分を改める勇気、気概、覚悟が無くば、どんな読書をしても無 …  | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

疑り深い人間は、他人のことを信じていない。自分だけを信じている。

他人を信じない人は、神仏も信じていない。神の子である同胞を信じない人間が、どうして親である神だけは信じている、などということが出来ようか。人を信じない人は、神も信じておらず、ただ自分のみを信じている。

 

自己保身、警戒心の強さ、防御本能、こうした気持ちはある意味で動物の本能レベルの心に過ぎず、万物の長たる人間が持つにしては、あまりにもさもしい心境と言うしかない。

動物たちは警戒心が強いが、命が危険な状態から脱したら、途端にホッと息をついて、それからは安心して草を食んだりして過ごしている。

しかるに人間は、臆病心や人間不信、猜疑心、疑心暗鬼の心が増大すると、実際には自分に対する危機など何処にも存在しない状態であっても、必要以上に神経過敏となり、常に疑心暗鬼の心で生きるようになってしまう人がいる。

疑り深い心、他人を信じることが出来ない心、自分の心身を守ろうとする過度の防衛心、そうした自己保身が過ぎる心の状態は、ある意味では、自分のことしか考えていない、自分の保身、安全をしか重要視していないエゴの状態という意味で、自己中心の際たるものと言うことが出来るかと思う。

こういう心の状態にあって、出会う人たちに自分の方から心を開いて接してゆく、だとか、相手のことを心から信用して信頼関係を築いてゆく、だとか、そういう対極の生き方は非常に難しいに違いないと思う。

そうして、他の人を信じられない心は、神仏を信じる心をも失わしめるものであって、結果的にこの人は、自分しか信じられない、自分の考えしか信用できない、他の人の言うことなどは迂闊には信じられない、自分に対して後の責任を取ってくれるつもりもない他人の言動になど左右されたくない、と言って、他人の意見や主張には全て疑心暗鬼の目を向けて、よほどに自分にとって問題が無い言動をしか、受け入れようとはしなくなるだろう。しかしてそうした、自分都合の自己中心の取捨選択は、他人を尊重してそれを受け入れるのとは違って、あくまでも自分本位、自己中心から来るご都合主義の取捨選択に過ぎないので、所詮、自分中心でしか物事を考えていないエゴの状態であることには、変わりがないのである。

 

幸福の科学の法シリーズのとある経典でも、いつも悪いことばかり予想するタイプ、自分に悪いことが起きるのではないか、といった、悲観主義的で猜疑心の強いタイプは、決して幸福にはなれないし、友だちも出来ないタイプだろう、という話がありました。

いつも悲観的でマイナス発想ばかりで、警戒心が強くて他人の発言を信用しない、他人に心を開かない、疑り深い性格である。こんな人が上司や同僚にいたら、誰も親しくなりたいとは思わないだろうし、しかしてそれは、周りの人間が悪いのではなくて、やはりその当人が常にマイナスオーラを発散して、自己中心の自己保身の気持ちばかりで生きているから、と言うしかないのでしょう。

この人がもし反対に、いつも明るく積極的で、周りの人たちのことを褒め、心から信用して、豊かな交友関係を作れるような性格であったなら、周りの人たちの方から好んで、この人との交流を望むでしょうからね。

そうならずに、周囲から疎んじられ、敬遠されるのは、やはり当人自身の問題であって、それを周りにろくな人がいないから、だとか、会社の雰囲気が悪い、組織がよくない、などと言って責任転嫁していたら、この人はいつまで経っても、どこへ逃げ出しても、決して幸福になることは出来ないでしょう。何処へ行っても、みずから不幸な環境を自分で作り続けることでしょう。

幸不幸を分けるのは周囲の関係や周りの人間によるのではなく、あくまでもそこにいる当人を中心として、その人は幸福の場を生み出せる人なのか、それとも不幸のオーラを発散しているのか、という、当人自身の問題に帰結するんですからね。

 

本を何千冊読んだとしても、自分自身の悪しき欠点を改める、という視点を欠いた生き方を固持してしまっているタイプは、その何千冊の読書が、自身の魂を善き方向へ変えることに一切役に立つことなく、無駄な読書に終わる、なんてことは幾らでもあるので、要注意ですよ。

冒頭にあげたように、自己保身、動物の本能のごときの自己防衛、自身の安全を守らんがための過剰なる防衛心、というものが強くなりすぎると、これは特に人間の場合、いま現在の自分の心の在り方は一切変えたくない、現状維持のままの自分をそのままで守りたい、という気持ちを助長させますからね。

そうすると、どれほど歪んだ性格や偏屈な性格であったとしても、これを一切あらためたくない、といって、そうして他人とは上手く付き合えないとなると、独りで出来る読書に逃げる、という卑怯な逃げ道が一つ出来るんですよね。

読書は単にすればするほどエライことでもないし、人付き合いの能力が皆無なタイプの人間が、自分独りでも出来ることだからといって読書に逃げる、そうしてひたすら沢山の本を読んで、自分を理論武装しようとする。

こういう行き方を選んでしまうと、読めば読むほどに、この人は屁理屈ばかりが達者になって、しかもそれは基本すべて、自分の自我を守らんがための言い訳や自己弁護、自己正当化の理屈編み出しにのみ向かって、そうして、これだけ本を読んでいる自分は余人より遥かに賢いのだ、といって自惚れ心が増長しさえするわけです。そうなると、この人にとっては、読書は有益などころか、むしろ有害で危険な逃避方法にしかなっていない、ということになるわけです。

 

人生論の本をよく読んで、それを厳しく自分に適用して、自分の至らざるを改善する、そういう自己修養のために本を読むのではなくて、自分の臭い欠点には蓋をして、その欠点は見て見ぬふりをして、あろうことか、その欠点を正当化するための根拠を、名著や古典から引用しようとまで悪だくみをし始めるので、これは世の中に時々見かける偏屈な自称・知識人を見ればわかるでしょう。

仏典やキリスト教の本、それから自己啓発の名著などを挙げたりするものの、その人自身が決して道徳に優れた人間でない、それどころか節操の無い軽薄な人間だったりすること、ざらにあると思います。

自分に都合のいい身勝手な読み方をするというのはどういうことかと言ったら、たとえば夏目漱石の個人主義を、自分のワガママ勝手主義を正当化するために引用したりして、しかして夏目漱石が厳しく注意点として挙げている、倫理的に優れた人にして初めて個人主義を称揚する資格がある、といった発言は知らんぷりをしている。ただ、自分の考えに従うのが自由なのだ、という自分勝手な解釈で、漱石をわかったつもりになって悪用している。とんでもない誤読と言うしかない。

組織になじめない自分を正当化するために、内村鑑三の無教会主義を援用して、組織に入らずとも、家で宗教書を読むだけでも深い宗教理解は出来るはずだ、というこれまた自分勝手な主義主張のための、偉人の悪用とかね。神に文句を言うヨブを引用して、同じく神に不満を抱いている自分を正当化するための根拠としたりとか、ヨブも神に文句を言っているのだから、自分が神に文句を言うのも間違っているとは言えない、という、自己正当化のための詭弁でしょう、これは。

 

どんな名著・古典であっても、これは読者が一方的に好き勝手に読むことが出来てしまうものなので、間違った読み方をした時点でそこで著者が、おいおい君、そこは理解が間違っているよ、わたしが言っていることを真逆に勘違いしているよ、わたしは責任放棄など勧めてやしない、自己責任と道徳観をしっかり持った上で自由を主張したまえ、と言っているのに、なぜ君は責任のところを無視して、自分勝手の個人主義のように誤読するのかね? などといちいち指摘してはくれませんからね。

だから本を読む、特に人文書、人の心を改革するための人生論の教え、宗教の教えなどを読む際には、よほどに自分に厳しく、これは自分はまだ出来ていない、わかっていない、ではどこが自分には足りないのか、という自分を叱咤する読み方をしないといけないわけです。自分に甘く、ゆるく、すぐに分かった気になったような甘い読み方をしてはダメなわけです。

そうしたチェックをするためにも、単に一方的に、自分の選り好みで本を沢山読めばいいわけではなくて、同じ本を読んだ人と対話してみる、自分の理解は正しいと言えるのか、オーソドックスな読み方として著者の意に適った読み方が出来ているだろうか、もし感想文を書いたら、多くの人がそれを読んで、なるほどそのような読み方があるとは勉強になりました、参考になりました、ありがとうございました、と言ってもらえるような、そうしたしっかりとした読み方が出来ているかどうか。

そうした、他者目線も入った自己点検が必要なんですよね。法友や友人が必要なのは、こうした点にもあるのであって、これが欠落して独りよがりの生き方になると、万巻の本を読んでも全部自分勝手な歪んだ読み方にしかなっていない、ということが幾らでも起きるんですよね。

わたしがもし、こういった他者との交流を欠いて本ばかり読んでいる、読書に逃げ込んでいるタイプの人にアドバイスをするとするなら、あなた、今から三年間、いっさい本を読むのをやめてみなさい。誰が何を言った、かにを言った、などという知識や情報を収集することを、知の蓄積だと勘違いしてはいけない。

そうした自己正当化や逃避のための読書は、以後三年間いっさい絶って、そのかわりに、いま身の回りにいる人たちと、親しく交流することに専念してみなさい。そうして、周りの人たちと親しく打ち解けることが出来るか、出来ないなら自分の心のどこに歪みがあるのか、エゴイスティックで他の人への無関心などの問題があるのかを、徹底して自分の心を見つめて、その過ちと歪みを直視しなさい。そうして、それを直視したならば、それをどう改善するのが、自分にとっての自己変革であるのかをよくよく考え、考えたなら覚悟を決めて潔く、その自分の非を改めるべく、明日からの一日一日を、他の人への利他行、奉仕の時間として与えることに専念してみなさい。

愛を与えることに専念すること、それを欠いたままいたずらに知の世界に逃げ込んでも、知は一歩も前進しないということを知れ。順序を誤れば何の意味も無く、知の探究をしているつもりが、単に自分の自己満足、自惚れ、知的虚栄心を満たしているだけのことに過ぎず、結果として、あなた自身、幸福への道を歩むどころから、やればやるほど邪まなエゴの道にはまり込んでいるだけとなっている、ということを知りたまえ。

そんな風なアドバイスをするかなぁ、と思いますね。

 

知の探究、本を読んでみずからの心を改めるための肥やしとすること、それは大前提として、自分を決して甘やかさない、自分を厳しく見つめる目を持つことを要求してくるものですね。

自分に甘く、ゆるく物事を考えて、字面だけ読んで安直にすぐに分かった気になってしまうような読み方であっては、いかほど宝の山のような名著を読んでも、単に外面的な新情報を知って、それで何か分かった気になっているだけの状態に過ぎず、自身の心を改革する、改善する、ということは全くやっていない人も、世の中には幾らでもいるので、それを乗り越えるためには、自分に厳しく心の修行の教えを向ける、適用する、自分の心自体を吟味する、という行程が必要不可欠なはずなんですよ。