LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
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ふっと思い出したんだけども … 。

 

高校一年生の時に思っていたことは、

「どんなことを訊かれても、答えることの出来るような博識な人間になりたい。そういう意味で、人から頼られるような人間になりたいものだなぁ」

ということでした。

 

今から考えると、無謀きわまりない願いやね(笑)。

 

けれども、そういう目標を持っていたら、永遠に完成することがないのもわかりますからね。いくら勉強しても、全てを知りつくすことは出来ないのだから。

けれども学べば学ぶほどに、着実に、知っていることは増えていくわけだから。

訊かれても答えられることが、だんだんと増えていくじゃありませんか。

むろん知らないことは返事も出来ないから(笑)、無知は知っていなくてはいけないけれども、学んだことには、それなりの発言が出来るようになる。

それが自分の自信にもつながるし、知的なバックボーンを持っているという自信は、落ち着いた性格にもつながるものでしょう。

 

どんなことにも答えることが出来る。

 

そういう人は、実際に存在しますよね。

 

言うまでもなく、大川隆法先生ですが。あの説法自由自在シリーズですね。質疑応答。どんな質問に対しても、すぐに答えてくださる仏の智慧、人智を超えた世界ですが、理想とする仏神の姿が、いまこの時代に生きておられるのですから、有難いことではありませんか。

 

 

 

 

 

先ほどの記事から続けて言えば、

 

ある箇所に対して質問を受けたとしても、書かれた内容は、知っていることの100分の1なわけですからね。元々からして。

だから、質問者は本を読んで、ここがわからないんですけど … と質問をぶつけるわけですが、その本を書いた著者は、書いたことの数十倍の認識を実際はすでに持っているわけですからね。ここがわからない、あそこがどうなっているんですか?と訊かれたとしても、そこはね、それは実はこうなっているんですよ、と答えることが出来ますよね。

 

総裁先生を例に引くのはおこがましいので、一般的な著者と著作者の関係で考えても、上のことは当て嵌まっているでしょう。

100を知っている人が、そのエキスとしての1だけを書いたのが、その人の本である。そういう本格的な凝縮された著書の場合は、著作者の認識というのは、著作に現れている文章の、遥かに奥深くにまで認識が広がっているんですよね。

だから、一部分を取り出して質問されても、それはこう、あそこはこういう意味、などといって、さらに具体的なエピソードを交えて、さらなる解説を行なうことも可能である。自由自在に、掘り下げたり、さらに展開したりできる。

これが本物の教養というべきであって、あらゆる質問に即答できるということは、驚くほどの認識力の持ち主である、といって過言ではないかと思います。

 

行なう前から、何を訊くかを決めてある国会の質疑応答と答弁などは、この、どんな質疑にも自由自在に応答する対機説法の極致に較べたら、子供だましのような裏約束あっての、見せかけの答弁にしか過ぎないでしょう。

 

単なる知識の受け売り・コピペのみ、自分の意見なし、というのもダメですね。少なくとも、よく腑に落として、自分の言葉で語れるくらいにまでならないと、鸚鵡の繰り返しの如しで、自分の理解にまでなってないのだから。

100の知識を持って1の著作を書いた人はスゴイけれども、

その1の本だけを見て、何かスゴイ勉強をしたかのように錯覚したままだと、その人は、1の背後にある100を知らないのに、思いあがってることになりますよね。

この人は、読んだ1しか知らない。だから、感想を述べるとしても、その1で読んだような言い回しを、そのまま丸写しでしゃべることしか出来なくて、そこに質問があるんですけど、とか、いろいろ質問されても、まったく答えることが出来ない、ということになりますよね。

1しか知らないのだから、同じく、1を読んでいる別の人に質問されても、自分だってわからない。先生に訊いてください、となってしまう。

 

だから、本を読んだからといって、わかった!!なんて気になるようでは甘いんですよ。もっと奥の奥まで知らないと、表に出ているところだけを読んでわかった気になって、著者と対等の認識を得たかのような気分に酔うのは、愚かの極みであるし、分を弁えない傲慢でしょう。

そう、わたしは思いますけどね。

 

1の奥にある100を知っていますか。そこまでのバックボーンを持って、その著書を読めていますか。著者と同じように読めていますか、といったら、そこまでの教養は持っていないのが普通でしょうし、簡単に思いあがってはいけないんですよね。

人との会話でも、本当に賢い人と会話する時には、表に出ている言葉と、その奥にあるバックボーンの深さ、これは見えないし、隠された部分でしょう。水面下に隠された氷山ですからね。そういう目でもって、賢者の思想は、謙虚になって学ばないといけないと、わたしは思うんですよね。

言葉の奥にあるものまで、読み取れるように、それだけの教養がなければ、わからない名著というのが無数にありますから。

ヘーゲルの「歴史哲学」しかり。これは、文庫本で2冊だけれども、実際の西洋の歴史をつぶさに知らずに読んでも、世界史の要約を読んでいるようなものに過ぎなくなってしまって、本当のスゴさはわかりにくいものでしょう。

総裁先生の「黄金の法」もしかりですよね。その奥にどれだけの内容があって、そこからエキスのみを抽出して描かれた本であるか、ということ。偉人たちの活躍をダイジェストで描写し、しかしてその天上界から見た意義と評価を、あの本に凝縮して表現してくださっている。

真輝さんの「大東亜戦争論」全三巻もスゴイですよね。参考文献を多数引用しつつ書いているのが、読めばわかりますし、あの三冊を書くために、どれだけの関連書籍を読破して、みずからの認識として取り込んだか、その上でエキスを抽出してまとめているか、ということを考えたら、三冊を読んで、大東亜戦争がわかりきるわけではないのは当然のことですね。

著者自体が、数百数千あるいはそれ以上の書籍を読破しつつ、まとめたエッセンスの凝縮であるのが歴然なのだから、そこに掛かれたエッセンスを、本当の意味で理解するには、自分自身もそれだけの幅広いバックボーンを教養として持つ、実際に大東亜戦争関連の戦記なり、伝記なりを、さまざまに学んで、その上であらためてまた、この「大東亜戦争論」を読み返す。

最初に読む時は、入門書として、ガイドラインを知るための読書であり、その上で、では実際に、世間に出ている膨大な関連書籍を大量に読んでいって、具体的な事件の数々を、実際に自分の目でもっても追いかけてみる。追体験してみる。時間をかけて勉強してこそ、初めて自分自身の血肉となり、確かな知識として取り込むことが出来ますからね。

それだけの努力をして、もう一度、大東亜戦争論3巻を読み返してみたら、どれほど見事にまとめられているかが、いっそうよくわかる。

すると、読者の私たち自身も、認識のステージが一段アップしますね。

 

知識は、書かれたものだけを知って満足していいものではなく、その奥に膨大な認識があって、その本は書かれているのだということをよく弁えて、自分自身、地道に絶え間ない勉強をし続ける必要があるんですよね。

 

 

 

 

 

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