熱心な信仰者と、冷めた傍観者の、信仰心の深さの違い | LEO幸福人生のすすめ

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キリスト教作家と自称している二人の作家は、発言を読む限り、それほど深い信仰心の人には思えないし、宗教的理解に深いものがあるとも思えなかった。

キリスト時代にも生まれていたけれど、当時は傍観者の立場で遠くから関心を持って見ていたが、熱心に信じていたわけではない、という過去世からの因果が現世の信仰レベルにつながっているらしい。

 

イエス・キリストは、現在存命のクリスチャンで、イエス様のお眼鏡に叶うような信者は、100人に一人くらいしかいないのではないか、と霊言で述べていた。

本当の意味でのキリスト者、イエス様を信じ、その生涯を生きている者と言われるためには、そんな形だけの信心レベルであっては、本物と呼べるレベルには程遠い、ということなのだと、わたしは思う。

 

イエス様が磔になった時には、十二使徒であっても四散して、ペテロはそんな人は知らないと三度言って、後で激しく後悔した、という話は有名だ。

イエスの弟子であることを否定した瞬間のペテロは、自分も罪に連なって捕縛され、命を奪われることが怖かったに違いない。それゆえ咄嗟に、わたしは知らない、と言ってしまったのだろう。

肉体生命を脅かされることの恐怖、命を失うことへの本能的な怖れ、恐怖心、そうした気持ちが勝ってしまえば、わたしはこの方を神の使徒である、と宣言する勇気さえ失ってしまう。

自分をその立場に置き換えても、わたしを一緒に殺しても構わない、などと豪語できるだけの勇気が自分なら持てただろう、などとはとても言えない。やはり身を守らんがために、時に嘘を言って自己保身を図り、あるいは他の人たちと同じく罪に連座することを怖れて四散した一人であったに違いない、と自分の現在の心境を観察して、そう思う。

 

しかるに使徒たちは、イエス様の後の復活を見て、イエス様ご自身との再会を経て、その心、かつての臆病な心は完全に消滅して、まったき信仰の人となった。

信仰のために命を捧げ、決して今後は逃げることなどなく、たとえ命を奪われようとも、このイエス・キリストの教えを神の教えとして心から奉じて、その使命を果たさんとして人生を捧げたのだ。逆さ磔になろうとも、信仰を捨てることなく、信仰を証しして殉教していった、そうした真実の信仰者となり得たのだ。

 

これに対して、最後まで傍観者のままで、イエスの教えを傍から眺め、死後はその行く末や弟子たちの行動をこれまた、他人事のように傍観していただけの人が、その後、深い信仰心を持って、転生することなどは、有り得ない、と言うべきだろう。

その人生で到達した、他人事のような関心レベルの宗教心であっては、生まれ変わっても、キリスト教に興味はあるが、そこに身を投じて深く信ずる、信仰のために命を捨ててでも信仰を堅持した人たちの気持ちを、共感的に、同情的に理解する能力などは持ちえていないだろう。生まれ変わっても、傍観者として、外から観察するレベルのキリスト教観しか、この人は述べられないはずである。

そこまでの深い信仰心を、魂がまだつかめていない以上、いくら歴史的事象をつぶさに調べ、その後のキリスト信者たちの言動を勉強しようとも、自分自身の内面における理解は、基本的に深まったりはしないからだ。試練を経て、自分自身の魂において、深い信仰心を獲得しない限り、単なる読書でもっては、真の意味での信仰心は掴めない。

 

これは、現代における学者達のキリスト教研究や、さらには、宗教に深く入り込むことは拒否して、そこから距離を取って傍観者のごとく他人事の気分で観察している宗教研究者、いずれも同じ精神の壁にぶち当たっていて、それを超えた真実の信仰の世界を知らない、知ることが出来ていない理由ともなっている、とわたしは洞察する。

 

宗教の世界、信仰の世界を真に魂で悟るためには、その世界にみずからの魂を投じて、そこで身をもって深い精神体験と試練を経て、魂の目覚めを痛感しなければならない。

魂の目覚め、という体験なくして、深い宗教心など掴めるわけもないし、頭だけの理屈を山ほど積み重ねても、それは代用にはならないものだ。魂で掴むべきものを、頭の中だけの理屈で代用は出来ないし、頭だけで心からの悟りを得ることも出来ないからだ。

 

宗教に興味はあるが、そこに深く入り込むことは嫌がり、そこから距離を取って外から傍観者の如く観察することが、客観的な宗教理解につながる、などという間違った理解をしている人間は、決してその宗教の奥義や真髄を、心が感じ取ることは出来ないだろう。

魂の救いも得られないし、宗教を通して感じられる神仏のもとでの魂の憩いも得られなければ、多くの法友と共に学び合う喜びの人間関係も得られないに違いない。

すべては他人事で、傍観者の立場に逃げ込んで、そこでリスクを避けて、果実のみ得られないかという、自分を甘やかした距離感でもって、宗教を理解できるという甘えた考えが、この人の魂の目覚めと救済を阻害しているのだ。

この人が救われないのは、神仏のせいではなく、自分自身で離れて距離を取って傍観しようとの、利己心、自己保身、卑怯なる態度、逃げの姿勢、そうしたものが、宗教そのものの中に入って、全身全霊でもってその教えを学び、自分の魂を試練の中で浄化して、己の足らざるを反省して改める、そういう勇気と覚悟がないことが、この人の傍観者的態度を取らせている主原因であると、わたしは分析する。

 

自分をそこへ投じて、魂そのものを洗いなおそう、という自己変革の意志を持たない人間は、どれほど偉大な神の教えを受けても、おのれの心を変えることは出来ない。

自分の心を改めるつもりもなく、変えるつもりもないままに、遠く離れた安全領域から傍観するだけの者は、キリストの教えを広めるために、逆さ磔になることも厭わなかった勇気ある信徒に比べて、どれほどさもしい自己保身の気持ちでいることか。

肉体生命の保全を第一に考えて、リスクは負いたくない、傷つきたくない、厳しい修行はしたくない、けれども、何かおいしい秘密の教えがあるなら知りたい、神秘の教えを知的には理解しておきたい、秘密の情報があるなら知りたい、などといって、自分に都合のいいところだけを抜き出そう、などという自分勝手な態度でもって、距離を取った傍観者の立場で観察する者、これは信仰の何たるかをついぞ掴むことが出来ない人間に終わるだろう。

 

世の中には、偉大なる宗教が時に現れて、それを素直に信じる者が徐々に増えてゆく、ということがある。

信徒が増えるには数百年かかることがある。

そのあいだ、信じないで生きている普通の人はごまんといるだろう。数億人、数十億人の、非信徒がいるかもしれないが、これはまだ、その宗教と信仰の世界に気づいていない、というだけのことであって、決して積極的なる否定論者などではないし、アンチなどではない、ということも正しく理解しておいた方がいいだろう。

 

まだ少数の信者がいる。日本ではまだまだ数が足りないが、世界を見ればすでに数千万人の信者が生まれている。心素直に、純朴な気持ちで、スッと信者になっている人たちも多いという。

一方では、日本や欧米諸国のように、文明が発達した世界では、そこで生きる人たちはある意味自分の判断や考えに自惚れているので、新たな宗教を素朴に信じる、という行為がなかなか出来ないでいたりするようだ。

伝統的な宗教なら信じてもいいが、新しい宗教の場合は、その宗教が正しいという世間的な評価や歴史的蓄積が足らないので、自分の判断で軽々しく信じるのは危うい、という警戒心があることが、素朴な信心を阻害するのだろう。

しかして、そうした人たちであっても、数年数十年あるいは来世にまでまたがった、数百年レベルの経過をもって、その教えを信じるに至る、ということが、魂の歴史においては起こっているし、だからこそ、イエス様が磔になった時には弟子がみな四散したのにも関わらず、この現代においては、キリスト教の信者は数十億のレベルで存在している、という信者の増加を見ているわけだ。

 

だから、非信者であるからといって、これを見下すことは許されないし、わたしたち信者と、いまだ信者になっていない人は、これは魂においては同等で、平等に愛すべき愛されるべき仲間であると、わたしは考える者だ。

これに対して、かつては信者であったが、退転して信仰を失った者。失うだけならともかく、積極的に否定して、これを葬り去ろうと企む悪質アンチになった場合は、どうであるのか。

信者に比べて、アンチと化すような悪質な退転者は、ごくわずかの微少の人数でしかないであろう。これらの人たちは、信者でない大多数を、自分らと同じく信じていない側の人間であるかのように見做して、少数の信者と、大多数の信じない者、そこに自分らアンチも入っているという意味で、自分らの方こそは多数派であるような印象操作を行って、多数決の原理から批判しているかのように悪さをするが、こんなのは嘘八百のご都合主義のデタラメというべきだろう。

大多数のいまだ信者でない人たちは、別に積極的な否定者ではないし、まだ関心が無い、という意味における非信者に過ぎないのであって、これは決して積極的なる否定派ではないし、ましてやアンチの仲間などではないこと、説明の要も無い自明のことである。

まだ少数派の信者、それでも世界を見たらすでに数千万人の信者がいて、それ以外の大部分は、伝統的な世界宗教の信者であって、そこには仏教、キリスト教、イスラム教、その他の教えを奉じる人たちがいるわけだ。

日本人は無宗教と言われているけれども、正月の参拝や、葬儀その他の宗教儀式においては、なんとなくでも霊魂の不滅やあの世の存在、それから神仏が存在することをおぼろがながらでも信じている人は多いのだ。

こういった大多数の人たちは、信仰を失って退転して、悪魔の手先となってアンチ活動を行なうような、悪質な魂ではないのであって、落ちこぼれた人間たちでもないこと、よく区別して理解しておく必要があると、わたしは思う。

人間の魂の格、霊格というものから考えたら、偉大なる教えに出逢いながらも、この信仰を捨て去って、自分の自我を優先して、そうして自我を守らんがために闘争意欲に燃えて、アンチ活動に励む者。教えを批判することでもって、自分の方が正しいと言い張る自我我欲タイプの人間は、これは霊格的には一番下等な位置にまで自らを貶めた、そういう境涯の中で生きている、ということなのだと、霊的に私は観察する者ですね。

すなわち、それが地獄の最下層にある無間地獄、というところに生きる者の、哀れなる心境、ということになるかと思いますが、そこにはまり込んでいるのはごくわずかの人数に過ぎず、千や万のレベルにも達しておらず、百いるかどうか、定かではありませんが、その程度のマイノリティーが暗躍しているだけのこと、と喝破して、これを封じて顧みない必要があるかと思います。

日本人1億数千万人の大部分は、こんな最下層の心境の人間とは何の関係もないし、そこまで悪質なアンチ行動を取る人間でもないこと、誰が見ても一目瞭然でありましょう。

 

わたしたち信者は、まだこの教えに関心が無い人、その価値を知ることなく知らずに過ごしてしまっている人に、法縁、法を知るきっかけを、自分という人間を通して示す使命があるのだと思いますね。

この身、この生き方でもって、あなたはいったい、どんな教えを学んで、そのような人になり得たのですか、わたしも出来得るならば見習いたいものです、と言われるくらいにまで、自身から発する光を強めること、そこまで自分の心を徹底的に磨いて光らせることが肝要なのではないかと、そう考える今日この頃であります。