『内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る』に学ぶ | LEO幸福人生のすすめ

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今の宗教学者たちもそうだろうけど、信仰心を持たないで、宗教研究をやっているような人は、「判断中止」をやって、「エポケー(判断中止)」の世界に 逃げ込んで、「自分がどれを信じる」とかいうことは決して言わない。「神様を信じる」とも、「仏様を信じる」とも、「あの世を信じる」とも、「あの世がある」とも、「 霊 がある」とも、何も言わずに宗教の研究をしているようなんで。それで論文を書いて、学者をやっている人がたくさんいるじゃないの。
 

まあ、こういうふうになるから、いろんなことを知っとれば、今度は柔軟になるかといったら、そんなことはなくて、知っとれば知っとるだけ、今度は〝 鉄板〟みたいになって、全然通らないようになることもある。


内村鑑三さんが霊言で語っている内容。

これは本当にそう思います。宗教学者といっても、さまざまな宗教を他人事のように外から「観察しているだけ」の認識では、その宗教を「内的に」わかっているとは言えないわけで、

しかして宗教というのは、やはり内的なものであって、その教えを心の底から実感して理解し、信じ、敬う心を持って信仰しているのでなければ、わかっている、とは言えないのだと私は思います。

単なる事物の研究とは違いますからね。あまり深入りしてのめり込むことなく、適当な距離感を持って、遠くから離れて眺めるように分析しよう、なんていう態度では、その宗教を真に「内的に」体験的に理解することは出来ないでしょう。
他人事のように外部から分析しているだけの分際で、なにか重要なことが判ったかのような勘違いほど、真の宗教理解からほど遠いものはない。そう、わたしは思います。やはりそれは、内的に、魂の体験として入ってゆかなければならない。キリスト教にしても仏教にしても、イスラム教にしても、それらの宗教を真実、魂で信じていると言えるためには、内面的な魂レベルの理解があって初めてそう言えるのではないかと思います。他人事のように外から眺めてああだこうだ言っているのでは、本当の信仰者とはなり得ない。

 

宗教学者といっても、自分自身がどの神さまを信じる、とか、仏さまを信じている、と明言もしない。あの世を信じているのか、信じていないのかもハッキリしない。そういう曖昧な立ち位置に立っているのでは、宗教を語る資格は無いのではないか。と思いますね。
あるとも無いとも言わないのが、ニュートラルな立ち位置なのだ、などというのは、自分自身では確たる信仰を持っていないことの言い訳に過ぎないし、客観性を騙って、実は自分自身の信念においては深いところに届いていない、確たる人生観を持っていない人間の逃げ口上ではあるまいか。そうも思います。
やはり自分自身、この教えを深く信じる! と信念を持って語る人の言葉にこそ、熱意が感じられ心打たれるのであって、客観的に語るなどという体裁ばかりを重視して、自分自身ではどれを強く信じているとも言わない人の宗教論には、迫力も説得力も感じられないでしょう。何しろ語るその人が深く信じているわけでもない人の宗教論なんですから、その語る内容に、どうして深く耳を傾ける必要があるのでしょうか。深い内容などあるのだろうか、と思わざるを得ませんしね。
宗教は内的に分かっている人の言こそが重要で、なぜなら宗教体験と理解は、各人の魂における内的体験そのものだからで、それがわかっている人の言にして初めて、他の人にも伝えるべき内容を持っているのだ、と思うからです。

 

まあ、何て言うかねえ、「知識が多い」ということと、「人間として深くなって 器 が大きくなる」ということは、一緒ではないんだよねえ。関係はあるんだけど、必ずしも一緒じゃない。 だから、勉強すればするほど、 偉くはなるけど、冷たくなって人を 見下していくような人や、人を許容しない人も出てくるし、逆に言えば、聞きかじりの信仰だけで伝道して、ほかの人を傷つけるような人も出てくるし、いろいろあるわなあ。


知識がいくら豊富になったとしても、その知識量の多さが、その人の人間的な深さ、魂の器量を高くするわけではない、ということ。人格が練れていなければ、たいして誇れるようなことではない、ということだと思います。

知識の量を、自分を飾るための衣装の豊富さのように思っていたり、知識の量を誇って要するに知を衒いたいがために数多くの知識をため込んでいるとか、衒学的に自己を大きく見せんがための知識とか、そういう方向へ行くのは、人格を磨く、というのとは違っている。なんのための知識か、なんのための学びか、という肝心のその理由のところがわかっていないと、こういう間違いを犯すのでしょうね。

冷たい人間になって、他人を見下すようになったとしたら、その人が山のように知識を持っていたとしても、ああこの人は、自分の人格を磨くための知識は欠落しているんだろうな、あるいは持っていたとしても、それを他人事のように単なるデータとして保持しているだけで、自分の人格を磨くために使ってこなかったんだな、自己鍛錬をしてこなかったんだな、魂を磨くということがわかってなかったんだな、ということでもありましょう。

トルストイが語っているように、世の中には数えきれないほどの情報や知識があふれているけれども、人間が学ぶべき本当に大切な知識というのは、人がいかにして生きるべきかという、そうした知識なのであって、外的な情報や知識を山ほど所有していたとしても、肝心要の人の生きる道を知らない人は、真の知識を持っている人とは言えない。
そのような趣旨のことをトルストイは述べているし、トルストイ以外の過去の聖賢も大抵、同じようなことを述べているかと思います。

真に大切な知識。それは神の教えであり、宗教が述べ伝える教えであり、倫理、道徳、心の教え、心のコントロール、利他に生きる道、そうした、人がより善く生きるための道こそが「それ」であるのだと思います。


ちなみに、この内村鑑三さんの霊言は、きわめて厳しい発言が数多く、信者であっても甘い考えでいる人間は一刀両断するかのような、厳しい指摘がガンガン飛んでくる、そうした白眉の霊言です。
内村鑑三さんから及第点をもらえる信者はそうそういないのではないだろうか? そう思いつつ、ここで語られている説教は、きちんと肝に銘じて拝聴した方がよい内容だとやはり思います。

生前の内村鑑三さんもやはり厳しい、実際にも厳しい人だったようだし、書籍で語られている言葉も舌鋒鋭く、ハッキリ物事の是非を断じて、曖昧な態度は決して採らない、そういう決断力のある、主張のハッキリした方であることが感じられます。真の信仰者というのは、こういう人を言うのだなと思わざるを得ませんね。その厳しさは霊になった今も変わらず、同じ個性を持って、現代の日本に、世界に向けて言葉を下ろしてくださっている。謹んでしっかりと学びたいものだと思います。