悪口を言うことは、自分が幸福ではないことの 証明 ~『心を癒すストレス・フリーの幸福論』に学ぶ~ | LEO幸福人生のすすめ

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悪口を言うことは、自分が幸福ではないことの 証明

見ていて分かると思いますが、いつも人の悪口を言っている人は、少なくとも幸福ではありません。幸福感に満ちている人が人の悪口を言い続けることはありえないのです。したがって、人の悪口を言うことは、自分が幸福ではないことの 証明 であると思います。 「人の顔を見ると悪口を言う」「人の何かを見ては悪口を言う」「 妬み、 嫉み、 嫉妬 の言葉を口に出して言う」などということを 習慣 としている人は、はっきり言って幸福ではありません。 こういう人は、「幸福ではないから悪口などを言うし、また、悪口などを言うから不幸になってくる」という 悪循環 に 陥っており、この 傾向 が改まらないかぎり、ある意味で幸福にはなれないのです。


悪口を言ったり、他人にけちをつけたり、あてこすったり批判ばかりをしたり、という人は、幸福ではないのでしょう。
幸福で心がいっぱいだったら、そんな他人の悪口を言って留飲を下げる、なんていうさもしい生き方はしていないに違いない。

他人の悪口を言うことを中心に置いているような人は、幸福ではないことの自己証明をしている。不幸の宣言をしているようなものだ、ということでしょうか。

妬み、嫉み、嫉妬の言葉を出しまくる。嫉妬ではないような体をしていても、実質的には嫉妬の心で発言していることもあるでしょう。嫉妬と思われたくないので、正当な批判のようなふりをして装って、けれども本音はただの嫉妬だったりして。こういうのも同じく、みずからが幸福でないことの自己宣伝であって、幸福でないからこそ、不平不満のかたまりとなって、その不平不満を正当化して摩り替えて、ごもっとな意見のようなふりをする、とか。

幸福でないから悪口を言う。悪口を言うから不幸になる、幸福になれない。この悪循環を繰り返している限り、どこまで行っても不幸のループが続くばかりで、心が幸福で満たされることはない、とのこと。
確かに、幸福で心が満ち満ちていたら、他人にいちゃもんをつけたり因縁をふっかけたり、そんなことをしている暇はないだろうし、そもそもそんなことをしたいとすら思わなくなるに違いないですね。
幸福でいっぱいだったら、ある意味すべてがバラ色に見えたりするほどの心の余裕が出来るはずだし、そういう心の状態からは、不平不満や悪口や嫉妬の心など出てくるはずもないのでは?

そう考えると、悪口、嫉妬の言葉、不平不満、こうしたマイナスの言葉ばかりが出ること自体、その人が幸福でない証拠、不幸の自己証明、幸福になるような生き方をしていない、幸福になれるような生き方・考え方が出来ていない、ということなのでしょう。

 

私は、「考え方が変わると、人間は変わることがある」ということを実体験し、「考え方には力がある」ということを知ったのです。 これは私にとって一つの 職業 原理になりました。 今、私は 宗教家 として 説法 を中心に仕事をしていますが、もし、こういう力が説法にないのであれば、いくら説法をしても 無駄 です。


大川隆法先生は、考え方が変われば、人は変わることがある、その人の人生がガラッと変わることが有り得る、ということを述べられています。
考え方を変えれば、その人自身が以前とは違った人間に変わることが出来る、人生も変わってくるのだ、ということ。
考え方には力がある、善き考え方、素晴らしい考え方を採用するように自身を説得して、自分自身を変えてゆけば、よりよい人生を歩めるようになる。人生が明るい方向へ変わってゆくことが出来る。幸福な人生を歩むことが出来るのだ、ということ。

だからこそ、そのような善き考え方、善き生き方とは何かを、総裁先生は語り、私たちに教えてくださっているのだ、ということ。仏法真理、仏が述べられる教えというのは、人が幸福に生きるためには、どのような心を持って生きたらいいのか、ということの集積なのだ、と言うことも出来るかもしれません。

人々を幸福に生きられるように、そうした方法を教えるために、数多くの説法をしてくださっているのだ、ということ。
逆に言えば、説法を聞いて、自身がより幸福に生きられる方法を各人がしっかりと学び、身に着けてくれるのでなければ、なんのために説法をしているのかわからなくなってしまう、説法が無駄になる、ともおっしゃっています。

 

私は、ある考え方に 納得 し、それを受け入れて、自分の考えを変えようとしたら、自分自身を変えることができました。あるいは、少なくとも、変わっていったことを 確認 できました。そのため、「ほかの人にも、そういうことはありうるだろう」と思ったのです。 これは、仏教的には、「悟り」かもしれませんし、


先生ご自身が、若き日の自分の(間違った)考え方を、新たなる(より善い)考え方に変えようとみずからを鍛えていったら、実際に自分の考え方が変わった、自分自身が変わることが出来た、という経験をなさったのだ、ということ。実体験をしたことで、自分の考え方を人は変えられるのだ、自分自身を変えることが出来るのだ、今までの自分、過去の自分がどうであろうとも、今日以後の自分は今までとは違った自分となる、違う考え方を採用し、より善い考え方を採用し、人生を新たに拓いてゆけるのだ、これはある意味では小さな悟りでもあるのだ。

ということを述べてくださっているのだと思います。
 

こうした言葉は、知らなければ分からないのですが、それを知ったことにより、その前と後では別の人となり、別の人生になることがありうるのです。私にとって、この体験は大きかったと言えます。



嫉妬の心と、祝福の心についても、両者を対比しつつ、解説してくださっています。

嫉妬というのは、他者をうらやんで妬み嫉む思いだけれども、本当はその妬んでいる相手というのは、自分がそうなりたい理想の姿であるのだ、ということも、何度も教わっています。
嫉妬の心を持つことは、理想像の破壊になってしまうので、いつまで経っても理想に届かない、みずから理想を否定して、理想の実現から遠ざかる行為になってしまっているのだ、ということ。

だから、嫉妬をするのではなく、祝福の心を持たねばならないのだ、とも教わっています。
 

嫉妬は、教わったり学んだりしなくても、本能でできるのです。 一方、祝福のほうは、人から教わるか、自分で学ぶか、このどちらかによって、「そうしよう」と思わないかぎり、できません。嫉妬は、学ばなくても、ひとりでに、自然に本能でできますが、人の幸福を祝ったり 祈ったりする祝福の思いは、 通常、まず教わる必要があります。「祝福という考え方があり、そういうものが必要なのだ」ということは、教えてもらわないと分からないのです。


嫉妬は、教わらなくても、本能レベルでも出来る、誰でも簡単に出来てしまうようなことでしかない。
一方の、祝福の心というのは、誰かに教わるか、自身で学ぶか、いずれにしよ、強く意志してそうしよう!と決意して実行していかないと、できることではないのだ、と教えてくれています。

嫉妬をするのは簡単。簡単ということは努力することもなく本能レベルで自然に出来てしまうようなこと、行なうのが楽ということでしょう。
祝福をするのは難しい、努力しないと実行できない、だからこそ学ぶ価値があり、これが出来るようになることは魂の成長につながっている、ということなのでしょう。
誰でも、本能レベルで出来るような「嫉妬」にいくらのめり込んだとしたって、偉くもなんともないですね。これでは魂が進歩しているとは、とても言えない。
しかして努力して、実行するのが難しい「祝福」をごく自然に出来るような、そうした自分を築けている人は素晴らしいですね。それだけの努力を続けてきたからこそ、そうなれているのでしょうから。

本能レベルで出来ることをやるのは、当たり前のことに過ぎず、自慢にも何にもならないし、嫉妬というのはそういう心の状態でしかない、のに対して、
祝福の心というのは、本能レベルでは出来ない、自身の魂を鍛錬して、そうした心の持ち方を身に着けないといけない、努力精進の結果ようやく身についてくる優れたる精神状態だとするのならば、
嫉妬の心を卒業して、他者を祝福できるような心をみずからの内に養うことこそは、魂の進歩の一つの姿であるに違いありません。


悪口と(正当な)批判、の違いについても、非常に参考になる解説がありました。
 

悪口と 批判 は 似 ていますし、同じであることもあります。それを受ける側から見たら、ほとんど同じであることが多いのです。 批判は必ずしも正しいとは 限りません。 間違っている場合もあります。 ただ、悪口と区別できる批判があるとすれば、それは、それを言っている人にとって、「正当だ」と信じるに足る 根拠 がしっかりしているものでしょう。「こういう意見が出るのは、この考えからすれば当然だ」と思える正当性 があるか。それとも、ただ、本能的、 感情的に言っているか。この違いで区別できるでしょう。 批判が完全になくなることはありません。やはり、批判が必要な面はあると思います。 しかし、悪口が 習慣 になっているならば、反省して改めたほうがよいのです。人をよくするためには、その人を批判してあげなければいけないこともあります。しかし、悪口が習慣になっていないかどうか、 点検 が必要なのです。


批判には、間違っている批判もあるが、正当なる批判、正しい批判というのが確かにある、と言われています。
正当性がある批判、客観的に見てもそうした批判が出るのは当然だな、と言えるようなそうした批判がそれである、ということかと思います。ここで言う客観的というのは、真理の眼から見た正当性、普遍的なる立場から見て正当性がある、ということでもあるし、二義的には、多くのまっとうな人たちが見ても、その批判はなるほど至極当然の批判である、と言われる場合には、正当性がある批判である可能性が高いと言ってもいいのではないかと私は思います。根拠がしっかりしている批判内容を持っている、ということ。そして正当性のある批判というのは「必要」なものである、との指摘もあります。

これに対して、悪口というのはどうなのでしょうか。正当性のある悪口というのはあるのだろうか。単なるケチをつけるための罵詈雑言、口汚い表現を伴った罵倒、こういう品性の欠けた悪意に満ちたまさに悪口というのは、正当性云々の前に、そうした汚い言葉を発する心の醜さ邪悪ゆえに、やはり否定されるべきものではないかと思います。
正当性のある批判、内容のある批判と比べての、単なる悪口の無価値、無内容、多くの場合、単なる感情的な恨みつらみ、先に述べたような嫉妬の心や、不平不満、こうした気持ちから出ている悪口雑言に、正当性があるとはやはり言えないように思いますね。

こうした悪口や、正当性の無い批判、批判に見せかけた悪口に過ぎないもの、と言ってもいいかもしれませんが、こうしたものにはどう対処したらいいのでしょうか?

 

強い 明確 な 意志 を持った悪に対しては、戦わなければいけないこともあるでしょう。

 

それは、 仏教 的には「 破 折」や「 折伏」というものです。仏であっても、歴史上、明確な悪や 悪魔 に対して、強く破折したことがあります。 幸福の科学でも、そういうことは何度かありました。

 

これは明確な悪だ。悪を 増大 させてはいけない」と思うときには、バシッと戦います。当然、反作用を受けて苦しむこともありますが、必要なときには戦うのです。そういう 余地 も残しておかないと、悪が増大してしまいかねません。 それに関しては、「善か悪か」「 正義 か 否 か」ということを 突き詰めて考え、 判断 すればよいでしょう。


確信犯的な悪、悪意に満ちた言動、誹謗中傷、そうしたものに対しては、戦う必要がある。戦わなければいけないこともある。そう、総裁先生も教えてくれています。許す愛というのは、悪を許すことではにない、という教えもありますしね。悪とは戦わないといけない時がある。それは破折、折伏という言葉もあるように、仏教精神の中にはきちんと入っている考え方とのことです。