魂の誓いと、それを破ることの罪とカルマ | LEO幸福人生のすすめ

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何度か取り上げて記事にしている、神智学協会の開祖ブラヴァツキー夫人の質疑応答集。

質問者はマスコミ関係者か、ジャーナリスティックな視点、俗世間の視点から、神智学に対する疑問点をストレートにぶつけている。
それに対して、ブラヴァツキー夫人が率直に、時に懇切丁寧に答えている、という体裁の質疑応答集である。
いまでも有効な、あるいはこれから先、あらたに説かれてゆくであろう神秘主義、宗教思想にも共通して問われるであろう、普遍的な回答が数多く、勉強になります。
 

【問】 協会の会員達はそのような教えを実行するのですか? 会員達の間には大きな不和と紛争があると聞きましたが。

【答】 それは当然です。現在の形での改革をたとえ新しいと言うことはできても、改革されるべき男女は昔の人達と同じように罪深い性質の人間です。すでに言ったように、熱心に 活動 している会員は少ないが、多くは協会と自分自身の理想を実現するのに最善を尽くそうとしているまじめな気立てのよい人達です。私達の義務は、一人ひとりの会員の知的、道徳的、霊的自己改善を奨励し、助けることであって、失敗する人達を責めたり、 咎めたりすることではありません。厳密に言えば、私達には誰に対しても入会を拒む権利はありません。特に秘教部門の場合には「入る者は新たに生まれ変わった者として」入ります。しかしながら、名誉と不死の自我にかけて聖なる誓いをしたにもかかわらず、もし会員が新入者としてその「新生」のあと、協会に属してしながら、昔の不道徳や短所を続け、依然としてそのようなことに 耽るなら、その時はもちろん退会を求められます。また、退会を拒む場合には、追放されることもおそらくあるでしょう。このような場合にはたいへん厳しい規則があります。


偉大なる開祖の教えと、それをもとに作られた教団、もしくは信徒の未熟とは、同列に考えるわけにはいかない。
いかに優れた教えが説かれたとしても、それを学ぶ弟子である人間たち、数多くの男女たちは、これからその教えを学ぶことによって、魂の成長を目指さんという途上にあるからであって、
それを学ぶ以前、すなわち現時点においては、未熟なる人間の一人にすぎず、キリスト教的に言えば罪深き人間の一人に過ぎないのだから。

だから人として、未熟であるがゆえの失敗も犯すし過ちも犯してしまうだろうし、そうした未熟なる人間同士で協力し合って、これから新たなる和合の場を作らんとするときに、さまざまなトラブルが起こったり、不調和が発生するのは致し方がないこと。

仏陀教団であっても、問題が起きてはその都度、新たなる戒律を設けて、その問題解決を図りつつ、教団のまとまりを維持しつつ、全体の調和を図っていたのだから。
最初から完成された弟子たちの集団を求めるのなら、その求め自体が過大なる要求ということであって、モノの見方が間違っているのである。問題は起きる。これからも起き続ける。大切なのはその都度、どのような適切な対処法を採って、その問題を乗り越えていくか、ということなのだ。


神智学協会に入会する際の「魂の厳粛さ」にも触れられています。

入るのは自由。各人、自分の自由意志によって入会し、学びの機会を得ることが出来る。
しかして、入会の際に立てる誓いは、単なる言葉の復唱ではなくて、これは高等なる自我、不死の魂の中核部分で立てる真剣なる誓いで、軽々しいものではないことがわかります。そういうニュアンスを込めて、ブラヴァツキー夫人がここでの解説をしているのは明らかです。仏教で言えば、三宝帰依の誓い、これがその人の魂からの誓いであることと軌を一にしているのがわかるでしょう。

大切なのはその後にあるくだりの部分。
協会に属したあとでも、それ以前の不道徳や短所をあらためることなく続けている、自己変革の意志の無い会員、みずからの問題点を改めるつもりがさらさら無くて平然としている人間、これが問題を起こした場合は、退会を求められることもあるし、追放処分がくだることもある、とあります。
これは至極当然の処断だと思いますし、真剣なる誓いによって入った組織であればあるほど、その誓いを反故にすることの罪は重い、霊的に言って重い、みずからと他をも裏切る破廉恥罪に相当すると思うので、重いのは当然と言わざるを得ませんね。

 

 

 

ごくわずかの名誉心のある男女なら、自分の名誉の言葉にかけて、まして、内なる神である自分の高級我にかけて誓った秘密を守るという誓いに、死ぬまで縛られます。たとえ部門や協会を去ったとしても、名誉ある男女なら自分が誓いを立てた団体を攻撃したり、傷つけたりしようとは考えないでしょう


もし退会したり、追放処分になったりしたとしても、その人に、ごくわずかの名誉心でも残っていたならば、元所属していた団体を攻撃したり、傷つけたりするようなことは考えないだろう、とブラヴァツキー夫人は述べています。
みずからの魂に誇りを持っており、魂の尊厳であるとか、名誉を重んじる心があるのなら、たとえ不満な思いが残っていたとしても、そうした悪質な行動には出ない、ということでしょう。
これは俗世間的に言っても、自分が所属していた会社を去ったりした場合でも、守秘義務というのは残っていますし、自分の個人的な不満を恨みに変えて、元いた団体を罵るとかね、こういうことをする人は恥知らずと言われても仕方がないでしょう。
ブラヴァツキー夫人は、自分が誓いを立てた団体を攻撃したり、といって、魂の誓いを立てた存在に対して、という点に重点を置いて、このような行為を厳しく戒めているのがわかります。

 

 

一たび誓いを立てれば、道徳の世界およびオカルトの世界、両方に永久に拘束される。一度誓いを破り、罰せられたなら、再び破ってよいということにはならない。誓いを破る限り、カルマの法則の力強い 梃子 が私達に反作用を及ぼすことだろう」(『道』一八八九年七月号、四巻九八~九九頁)。

 


当人が、単なる言葉の約束じゃないか、といかに軽々しく考えていたとしても、魂の誓いというのはそんな次元とは違って、厳粛なる誓いの言葉と思いを、みずからの魂に刻印しているものなのでしょう。
したがって、魂の本源的なる位置における誓いというのは、道徳世界そのもの霊的あるいはオカルト世界そのものにまたがって、自分自身を永久に拘束するほどの力がある、それほど厳粛なるものである、ということでしょうね。
したがって、この誓いを破った場合、これを破り続けた場合は、カルマの刈り取り的な、魂の反作用は相当なものとしてみずからに跳ね返ってくる、ということ。それは生まれ変わって来世別の人間になったとしても、そしてその時に、今世のことをまったく覚えていなかったとしても、確実に当人へと帰ってくるカルマの作用を引き起こすに違いなく … 。

言葉と思いと行動には、それだけの重みがあるのだ、ということ。軽々しく、無責任に発したり、安易な誓いで済むものではないのだな、ということ。魂の法則を知れば知るほどに、そう考えざるを得ない思いがしてきます。
内村鑑三さんは、魂自体に責任というものが所蔵されている、魂の責任という形で、魂が存続するかぎり何処まででも付いてくる、ということを生前述べていました。

それだけの責任の自覚をもって、言葉を発すること、思いを発すること、考える内容を決めてゆくこと、思いのコントロール、言葉の調律、仏教で言う八正道による点検の重要さ。これは自覚する以前には、誰しもある意味、無自覚無責任なままにほったらかしにして、好き勝手に考えたり発言したり思ったりしていることも、それでいいわけではないのだよ、ということを示唆しているのだと思います。

そのことに気付いた時こそが、心をきちんと正すための修行に入る第一歩を歩み始めた時なのでしょう。