守護霊 や指導霊の言葉であっても、もう一度、 八正道 というフィルターにかけて聞いてみる | LEO幸福人生のすすめ

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非常に心すべきこととして挙げられるのは、「高級霊の言葉であっても、あるいは 守護霊 や指導霊の言葉であっても、もう一度、 八正道 というフィルターにかけて聞いてみる」ということです。これが大事です。 そういう声が聞こえてくるのは、自分自身のなかに、それを強く求めているようなことがあるからではないのか。そういうこともありうるわけです。 だから、高級霊の声であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて考えてみる必要があります。

 

『漏尽通力』で大川隆法先生が述べられている言葉。これはとても重要なポイントだとあらためて考えさせられます。

先生は初めて高級霊からの霊言が臨んだ時も、それ果たして本当の高級霊界からの言葉なりや? と判定に慎重であったと言われているし、その後、数多くの高級霊からのアドバイスを受けても、そのすべてをハイハイご指示の通りにします、といって採用するのではなく、アドバイスを参考にしながらも、きちんとご自身で考え考え、その上で実際の選択行動を決めていった。ということを、初期から教えてくれていました。

これは、たとえば信者各人が、自分がもし通信を受けたらどうするか? それは守護霊の言葉であるか、高級霊のアドバイスであるのか、はたまた悪霊や動物霊のそそのかしであるのかどうか。
といった問題に遭遇した時に、採るべき対処法、というだけではなしに、いま現在数多く発刊されている数多くの霊言を読む際にも、

高級霊を名乗る人物の霊言だから、すべてご尤もといって納得したり、あるいは地獄霊の言葉だからといって下に見たり、といった、そういう読み方では上の応用が出来ていることにはなっていない、ということかと思います。

高級霊の霊言を読んでいる。その内容を、自分自身の頭脳でもよく吟味して、内容を理解して、その上で納得しているのかどうか。採用しているのかどうか。自分の読み方の反省にもなるかと思います。
誰それの言葉だから全面的に信用していい、ということにはならないし、いかに高級霊であっても判断を間違える時もあるはずだし、
かといって、疑り深く読む、というのはまた違うわけで、そのことも総裁先生はきちんと指摘されています。
 

 

ただ、これも、行きすぎてはいけません。高級霊が何の 啓示 を送ってきても、「すべて自分で判断するのだ」ということで、全部、勝手に自分でやるならば、これは、そういう声がないのと同じです。神も仏もないのも同然であって、これでは「自分しかない」ということになります。 これは「我流で生きていく人」でしかありません。


霊の言葉、霊界通信で降りてきている言葉を、八正道というフィルターにかけて考えてみる。考えながら読む、学ぶ、ということ。

その時点での自分自身の八正道の理解がひとつの限界にはなるでしょうけれども、その人として学び得ている仏法真理の理解レベルを精一杯適用しつつ、それらの霊言を読む。ただ単に読む、のではなくして、すでに学んでいる仏法真理、八正道の観点に照らして、その霊の言葉を再確認すること。

こういう学び方をしてゆくことで、単に他者のことば(それが偉人の言葉であっても)をそのまま鵜呑みにするのではなくて、仏法真理の観点から見て、その思想の高低や正邪の判断が、自分自身でも出来るようになること。それがまた重要な学びにもなっているのではあるまいか。そんな風に思いつつ、『漏尽通力』の該当箇所を自分は読んだのでありました。

幸福の科学の霊言は、総裁先生の威神力のお陰で、どこの誰からの通信かわからない、とか、匿名者からの通信というのではなく、大部分が人物と名前を特定しての霊言になっていますから、読んでいる時点で、如来や菩薩の通信だなこれは、といって読むことが出来ているし、悪霊の霊言は悪霊のことばとして初めから読めてしまっている。いわば安心して読めてしまっているわけですが、

これがもし匿名の霊界通信であったとしたなら、読者である私たちは、その内容からのみで、正邪の判断を下したり、裏表の判定をしたり、思想の高低を判断できるだろうか? と問うてみると、途端に自身が無くなるのではないでしょうか?

匿名であっても、その内容のみから正邪の判断が出来、高低の判断が出来るような理解レベルに達していない場合は、これ、もし自分に霊界通信が直接来た場合に、最初は高級霊だったはずが途中ですり替わっていった場合、見抜けない、ということにもなりますからね。
声だけを聴いて、その内容だけを聴いて、中身の是非が判断できるかどうか。そのための判断能力をわが身に付けるためにも仏法真理の正しい学びが不可欠だということ。

仏法真理をどこまで正しく、正確に精密に、精査の基準として使うことが出来るか。これが後で自分を守る命綱になるのは間違いありませんね。
名前は詐称が出来てしまうので、自称高級霊や自称有名人というだけでは、何の保証にもならないし、言っている中身がその人物の名にふさわしいかどうか、その判定が出来るだけの認識力が自分についているかどうか、そのための自己修業が大切だと思うんですよね。

惑わされないためには、心の執われを去って、迷わしの取っ掛かりになるような弱点・執着をあまり持たない、さらさらとした心境を維持することが大切だし、我見で判断を誤らないようにするためには、私心を去って、公のために生きる心、神仏に従いその命に準じて生きる素直な心がとても大切なのだと思います。
すべてはつながっていて、心の修行のさまざまな課題は、こうした通信内容の判断する際の、自分自身の能力として素養としても有効になること間違いなし。
誠実な心、正直な心、潔い態度、勇気、決断力、さまざまな魂の特性、よき特徴を兼ね備えることが、悪しきに惑わされず、善きものに導かれ、そしてそうした言葉にのっとって生きられる、豊かな人生を約束してくれるものなのだと思うのです。