ドストエフスキーとトルストイとキリスト教と幸福の科学 | LEO幸福人生のすすめ

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ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、「大審問官」という架空の物語を小エピソードを披露している。作中の登場人物イワンが創作した物語で、もしキリストが15世紀のスペインに現れたら? という、キリスト再臨の物語である。
スペインで激しく吹き荒れた異端審問の時代に、もしキリストが現れたら、キリストはその本来のキリストの教えからほど遠いキリスト教会の現状を見て、こんなものはキリスト教ではないと言うであろうか? 劇中のキリストは一言も言わずにその地から去ってゆく。
一方、この世の教会の担い手である大審問官こと枢機卿は、キリストを捉えて牢屋に放り込み、キリストを難詰する。ここにあるキリスト教会は、あんたの本来の教えがどうこう、などということとは何の関係もない。今さら出てきてもらって、これは本来の教えではないだの言われても困るのだ、この教会システムの中で生きる聖職者たち、その教えによって導かれている人類をも含めて、すでにそれは遥か昔に説かれたアンタの教えとは何の関係もなく、ここにある教義として、風習として、権力・権威として確立しているものなのだ。だから、本来のキリストの教えからしたら、などといって批判されても困るのである。問題があると言うのなら、あんた(キリスト)の方こそが部外者として、ここから黙って立ち去るべきである。そもそもあんたは、こんな場違いのところに現れるべきではなかったのだ。
というようなことを言って、キリストを否定するのである。枢機卿は神を信じていないのである。そういう人物が教会のヒエラルキーのトップの位置にあって、その時代のキリスト教とはこういうものである、という取り決めをしているのだ。そこでは、キリスト本人の考えが何であるか、といったことは最早立ち入ることも出来ないし、望まれてもいないのだ、云々。

これは、ドストエフスキーが語る「キリストの再臨」もし成されれば、時の教会はキリスト本人を否定するであろう、教会はもはやキリストの教えとは程遠い存在にすぎず、キリスト本来の思想とも相容れず、どちらかがどちらかを排斥する相いれない関係のもとに成立しているのだ、という批判の思い。
おそらくはキリストの方が、この世の権力・権威たる教会に否定されるだろう、という皮肉というか予言というか、それを文学的に消化しつつ語ってくれている重要な一節である。

ドストエフスキーは、幸福の科学総裁であられる大川隆法先生が招霊した当人自身の霊言によれば、9次元大霊マニ(ゾロアスター)の分身である、とのこと。
そしてまた、同時代に存在したもう一人の文豪トルストイは、キリスト自身の分身である、とのトルストイ霊本人の言もある。
キリストはまさに、当時のロシアに再臨していたのであって、そのキリストと同格たるゾロアスターの分身が、キリストの再臨はかような顛末に至るであろうと述べた「大審問官」の展開は、のちにロシアにおいても現実化してゆく。

トルストイは晩年の著作「復活」の中で、当時のロシアのキリスト教、ロシア正教への批判を明らかに含んだ一節を描写している。そこでは多くのロシア民衆が敬虔に祈りを捧げ、儀式に参画しているシーンが描かれているのだが、トルストイはパンや葡萄酒に拠る聖餐の儀式、その他の状況を描写しつつ、こんなことはキリストは教えていない、これはむしろキリストが否定しさったことのはずなのに、という独白を交えて活写しているのである。民衆たちは真剣に真摯にキリストの救いを願っているのかもしれないが、そこには真なる宗教的なる意味は含まれておらず、また正しい理解もないままに、単に迷信的な、あるいは形骸化した儀式を盲目的に行っているだけの哀れさしかない、かのような描出を行なっている。これこそは、キリスト自身による教会の否定、批判だとするのなら、この批判を受けて正教側がトルストイを破門したのは、まさにドストエフスキーが「大審問官」で予想した、教会によるキリスト本人の否定、追放に見事に一致している、と思えて仕方が無い。

こうした読み方をしてゆくと、トルストイとドストエフスキーという二大文豪が同時期にロシアに現れたこと、ロシア民衆に真実の宗教とはいかなるものであるかを、その文学を通して間接的に語ったのであることが理解できるように思えてくる。
ソ連が崩壊して、その中心国家であるロシアが民主化の方向へ舵を取り、正教の復活、キリスト教の復興が行われるなかで、トルストイとドストエフスキーへの再注目が為されるなかで、真実の宗教への希求も起こってきているに違いない。ソ連当時にはドストエフスキーによる社会主義革命への批判的な著作は禁書にされていたと言うし、しかしてトルストイやドストエフスキーの文学は、ロシアの人々の中でずっと読まれてきていたのだ、ともいう。国家による干渉や改ざんを避けるために、文学的な衣をかぶせて、そこに宗教的な内容をひそかに込めて語っているのだ、ともいう。

ドストエフスキーやトルストイが当時のロシアにあって、ストレートには言い得なかったこと、本当にやりたかったこと、宗教的なる教えを通して伝えたかったことは何であったのか。幸福の科学総裁であられる大川隆法先生を通して、トルストイが霊として語り、ドストエフスキーも同じく霊として現れ霊言を語ってくれている。お二人とも霊言を通して、その魂の驚きの真実を初めて明かしつつ、当時みずからが文学表現を通して、ロシアの人たちに語りたかったことは何であったのかを教えてくれている。これは凄いことであるのだし、ロシアの人たちに対する宗教改革の福音であるのだと今にして思う。
幸福の科学の教えは、そうしたロシアの二大巨頭の再発見をも含めて、しかしてロシアの宗教改革のみではなく、イスラム世界の改革をも語り、かつキリスト教世界の改革すべき点をも語り、さらには仏教の教えを主軸とした改革をもその中に含んで、要するに世界に存するあらゆる宗教の再発見、真実の見極め、何が正しく何が間違っているのか、真に受け継ぐべきものと改めてゆくべき点の見極めを行ないつつ、人類の悔い改め、宗教に対する真実の理解、神仏に対しての人間のあるべき姿を語って久しい姿がここにある。最強にして最大、最上の現代の宗教がここにある。幸福の科学、その総裁であられる大川隆法先生の偉大なる教えの数々の真意義を思い、この教えに出会えたことを本当に有難いことだと思うのである。