キリストは私どもの霊魂を救うために来られた | LEO幸福人生のすすめ

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私どもは 何故 に宗教を信ぜんとするのでございますか、キリスト教を信ずるのは何もある俗的自称キリスト教徒が申しますように、外国人との交際を円滑にするがためではありません、また 必 しもこの 教 を信じなければ社会と国家とを改良する事が出来ないからでもございません。


私たちは、なぜ、宗教を信じようとするのだろうか? なにゆえに、宗教の教えを信ずるのであるか?

内村鑑三さんは言います。

それは、外国人との交際を円滑にする、というような、外的な理由に拠るのではない、と。
それを信じている、という体裁を取っていた方が、同じくキリスト教徒である外国人との交際に便利だから、というような、そんな手段として有効などという理由に拠るのではない。

そんな理由で信じている人間の信仰は、ほんとうの信仰ではないし、宗教を信じる理由としては不純である。手段として、それを信じているという体でいた方が、都合がいいから?

そんな信仰であっては、本当の信心とは言えない。


この箇所を読んでいたら、ちょうどいま併読・再読している、トルストイの「復活」に登場する、とある人物がまさに、そうした理由でキリスト教を信じている姿が出てきて、奇妙な一致をわたしは感じました。

その、「復活」の主人公ネフリュードフのかつての友人は、頭もよく、この世的にはエリートコースで出世街道を歩んでいるような人物なのだけれども、当人の内面が吐露されている場面があって、そこでその人物は、

自分は、この教えを信じる気持ちなどとうに失い、この信仰への疑問を抱いて信じきることが出来ない、そういう気持ちになって久しいのだが、しかし、これを信じないと明確に主張してしまっては、他の人たちの付き合い上、都合が悪いし、さまざまな儀式への参加の際にも、自分をあざむくようで不便である。信じていないのに、信じているふりをするのは、自分にとっても苦しい。では、どうするか。

その教えの中身は信じられないけれども、理解することも出来ないけれども、これを受け入れることによって、自分の生活の苦しみや葛藤は避けられる。自分の生活上、そうした方が便利なので、自分は信者であることを続けよう。儀式の意味や教えの真髄などは理解を超えているが、それは教会にお任せして、自分はこれからも祈祷式や法要に参加したり、聖像に向かって十字を切ることにしよう。

結局、この人物は、正教の教えを心の中では、あるいは頭でも理解できないし、信じてもいないのだが、この宗教を信じることは、自身の生活の利便上必要不可欠であるし、その方が都合がいいので信じ続けることにしよう、といった態度を採るわけです。


内村さんはこうした、真実の内的動機に拠らない、外的な事情、生活上信じた方が都合がいいから信じる、などといた理由で信心は、とうてい長続きしないし、そういう信仰であってはちょっとしたことで、簡単に棄てられる程度の信仰でしかないだろう、と述べています。

 

 

 

そんな目的を以てキリスト教を信じた者は大抵これを棄ててしまいます、ご覧なさい、日本今日の社会に堕落信者の多い事を、今日ではいずれの銀行、会社、外国商館または米穀取引所に 往 っても堕落キリスト信者の一人や二人はおらない処はございません、彼らの多くは一度は身に教職を帯びた事のある者でありましてまた、立派なる宗教教育を受けた者であります、しかるにその今日に至りましたのはそもそも何の理由であるのかというに、これは始め彼らがキリスト教の目的を解らずしてこれを信仰したからでございます、キリストは私どもの霊魂を救うために来られたのに彼らは社会改良とか、または国家救済とかいう政治家めきたる目的を以て彼に来ました、イスカリオテのユダがキリストに従いましたのもやはりこの目的でありました、しかしユダといい、今の日本の堕落信者といい、キリストが彼らのこの卑しき目的を 充たさないのを見て、 皆 な彼を棄ててしもうたのでございます、霊魂を救われんがためにキリストに来らない者は皆な同一の運命に終るものでございます。  
「いかにして我が霊魂を救われんか」、この 号叫 の声がなくしては 到底 キリスト教は解るものでありませ


真の内面的な理由にもって求めているのではない、外的な理由、信者の体をしていた方が便利だとか、形だけのクリスチャンであるとか、こういう信者はどこぞの集団を調べれば大抵ひとりや二人は見つかるけれども、こういう考えの人を、堕落信者、と表現しています。堕落信者の何と多いことかと、そう嘆いている。

キリストは、わたしたちの魂を救うために来られたのに、その魂の救済のために自身の心を顧みるのではなうて、キリストに国家改革や、社会改良を求めて、それが叶わないとなると、キリストへの信仰を失ったのは誰であったか? 

キリストを裏切ったユダこそは、そういう考えでキリストを見ていた人物ではなかったか。

わたしたちは、ユダのような態度で、キリストを信心するのであろうか。それとも、自身の魂の救済を求めて、そのためにはいかなる心でもって生きたらいいのかを、キリストの言葉から学ぶのか。どちらの信仰の道を選ぶのであろうか?

魂の救いこそを第一義としなければ、本当の意味での信仰がわかっているとは言えない。

 

 

 

 

 

 

もし我々の肉躰の病を治す事がキリストの目的でありましたならば、彼は僅かに医師の一種たるに過ぎない人でありましてさほど尊重すべき人ではございません、もしまた世にいう社会の改良がキリストの本職でありましたならば、彼は政治家の一種でありましてギリシアのペリクリース、ローマのシーザーと肩を 併 べるくらいの人でありましたでしょう、しかしキリストは医者でもなければまた政治家でもございません、彼の天職は霊魂の 救 主たる事でありまして、彼の為されし仕事の性質から申しても彼は人類中に比類のない者でございました


キリストは病人を治したけれども、単に病気を治すことに価値があるというのなら、医師として優れているといっているようなものになる。
社会の改良にキリストの活躍を期待するのなら、それはキリストに、ギリシアのペリクレスや、ローマのシーザーのような仕事を期待しているのと変わらない。

キリストは医者ではないし、政治家でもない。キリストの天職は、わたしたち人類の魂を救済してくだること、そのために来臨してくださったのだということを知らなければ、真の信仰には至れないのだ。

そう、内村鑑三さんは言っているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

私どもの肉躰を養うに魚 肉 野菜 穀類などの食料がございます、また私どもの智能を養うに宇宙万象に現われたる天然の理がございます、しかし食物も天然も私どもの霊魂を養うには足りません、私どもの霊魂を養うに足るものは神が人類に下し給いました霊の 糧 なるキリストでございます


食べ物は、わたしたちの肉体を養ってくれる。

私たちの知能は、宇宙の理、理法とも言うべきものによって、養われている。

しかし、私たちの魂、霊魂をやしなうには、それだけでは足りていない。
霊魂を養ってくれるのは、キリストの愛、キリストの救いの光、それをわが魂で感じ取ること、感得すること。

 

 

 

 

 

もし 貴下 方 が聖アウガスチンや、詩人ミルトンや、偉人クロムウェルや、バンヤンや、グラッドストンが神を 需 (もと)めしような熱誠を貴下方の心に持ってご覧なさい、私がここに述べました事が決して夢でもなければ幻でもなく、実の実、真の真である事がお解りになりましょう


聖アウグスティヌスや、「失楽園」のミルトン、清教徒革命のクロムウェル、「天路歴程」のバニヤン、政治家グラッドストンが求めたような、神への篤い信仰、熱誠の気持ちを、あなたたちの心の中に持ってみなさい。
もしそうすることが出来れば、わたし内村がここで述べたことが、いかに大切なる真実を述べているかが解かるでしょう。

そのように内村鑑三さんは説明してくれています。