もし私が罪を犯しまするならばその責任は全く私一人に在る by 内村鑑三 | LEO幸福人生のすすめ

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「私」といい、「 貴下」というは私の霊魂または貴下の霊魂を指していうのでございます、私の肉躰も生命も私の霊魂の所有品でありまして、私はこれを私の君のためか、あるいは私の国のために 献 げる事が出来ます、しかし私は私の霊魂を私より放す事は出来ません、私の霊魂の 在る所に必ず私は在るのでございまして、私どもは何と別るる事あるも、私どもの霊魂と別るる事は出来ません。  
私どもに霊魂の在る最も明白なる徴候は私どもに附いている 責任 の念でございます、もし私が罪を犯しまするならばその責任は全く私一人に在るのでございまして、何物も 何人 もこれを分担する事が出来ず、また私はこれを彼らに分つ事も出来ません、


わたし、あなた、と言い合う関係。それぞれの人間の本質とでもいうべき、魂、というもの。魂の真実。

肉体は、魂、霊魂の所有物であって、そこに「わたし」たる本質は無い、と言っています。
わたしの本体、あなたの本体は、魂であって、霊魂ですね。この霊魂が大事なのであって、これが各人の本体である、と述べています。

肉体は滅びる時が来るし、肉体生命も尽きる時が早晩来ますし、そもそもそれは人間の本質ではなく、人間の本質であるところの「魂」の所有物、付随物に過ぎないのだ、と。
だからこそ、誰かのため、国を守るために、肉体生命を捨てることもあるでしょう。できるでしょう。

けれども、魂の方は捨てられない、これは滅びない、消えない、肉体生命が死してのちも、自分自身の本体として、切っては切れないものとして、どこまでも一体化して付いてくる。別れられない。家族とは別れることがあっても、自分の魂とは別れられない。なぜなら、これこそが自分であるのだから。

つづいて内村鑑三さんは、魂について非常に興味深い発言をなされています。

私どもに霊魂の在る最も明白なる徴候は私どもに附いている 責任 の念でございます、もし私が罪を犯しまするならばその責任は全く私一人に在るのでございまして、何物も 何人 もこれを分担する事が出来ず、また私はこれを彼らに分つ事も出来ません、


わたしたちに、霊魂が在る、というその最も明白な徴候、その証拠と言えるのは、

責任の念、というものがあることだ。と言っています。

自分が感じる責任の念、これが有ることが、わたしたちに霊魂が在ることの徴候ではないか、という洞察ですね。
自分の心に感じる責任の念、責任の自覚というものを持つこと自体が、そうした念を持つ本体がある、そういう実体がある、これが魂である、魂の実在の証明。

とも言うべき話をしているわけですが、人間が持つ「責任の念」「責任を感じる心」がある、ということこそが、霊魂の実在の証拠ではないか、ということかと思います。

霊魂の実在、現存と、「責任」という概念を直結させているところが、すごいと思いました。

これは、魂そのものに、責任を担うべしという使命が、最初から備わっている、そもそも存在している、という洞察とも取れるし、各人各人の魂には、各自みずから思い行なったことへの、当人しか担えない「責任」というものがあるのだ、という理解ですね。

もし私が罪を犯したなら、その責任は「わたし」のみにある、「わたし」一人に有る。家族でも変わりは出来ないし、神さまが代わってくれるわけでもない、他の誰かが代理で担えるものでもない。

自分の魂の思ったこと行なったことの責任は、自分自身で背負う以外にないのだ、ということ。

これが、内村さんの理解する、魂の本源的なる使命、理解だということが、よくわかります。


文明国の法律はいずれも刑罰の責任の犯罪人一個人に留まる事を認めております、また責任という事は人の霊魂に属するものでございますから、霊魂以外のものにこれを着せる事は出来ません、世には社会学者なる者がありまして 頻りに 社会の罪悪 とか 社会の責任 とかいう事を唱えまして、個人の責任を社会に移そうと致しまするが、これは実際出来る事ではございません、

単に社会の罪ばかりを責めて、「私の罪」、「汝の罪」、「彼の罪」を 糺さない社会は 終 には消えてしまいます。


これは現代の日本社会でもいまだ未解決というか、遥かに精神理解の浅い法律ゆえに、未解決の問題ですね。

犯罪を犯した人間、その当人にこそ責任があるはず。

なぜなら、責任というのは、魂に属するものであるから。罪と罰は、その当人の魂に始まり、当人に帰結すべきものだ。

ところが、文明社会といいつつも、この責任をないがしろにするような愚かな対処法がいまでも採られていたりする。

いわく、社会全体の問題である、社会が生み出したひずみである、罪である、とかいって、犯罪を犯した当人の責任を回避せんがごとき、外部への責任転嫁、社会システムへの責任転嫁を行なっていたりする。
大きな問題のごとく解釈すれば、いかにも自分はマクロの目で達観してこの問題を問うているのだ、といった気分に酔うことも出来ますが、それは個人の問題で済むことを、大きな社会問題に拡大してしまって、全体の責任にしようとする、あるいは連帯責任は無責任というように、責任の所在をうやむやにするいい加減な思考でしかないのかもしれない。

あくまでも、私の罪、汝の罪、彼の罪、といって個人責任を問うのでなくては、魂の責任と自覚は生まれない、反省も生まれない、改善も生まれない。悪しき個人の、その魂の問題点を改めることなくして、そこから生まれる誤謬を消すことは出来ない、にも関わらず、そこを問わないとは、問題の本質を見ずに、ずれた視点に問題をずらしている行為にすぎないのではないか。


責任は霊魂に附属しているものでありますから、境遇と肉躰との変遷と共に変化するものではございません、貧の時に犯した罪は富んでも 失せません、小供の時に犯した罪は大人となっても消えるものではございません、境遇は異なり歳月は経過しましても「我」はどこまでも「我」でございます、


この考察も興味深いですね。霊魂の不滅、あるいは転生輪廻を踏まえなければ、上で述べられている意味を十分に解することは出来ないように思います。

魂の犯した罪、その罪に対する責任は、肉体の変遷とともに変化するものではない、と述べています。

その人の肉体が滅んでも、寿命が尽きて死んだからといっても、その責任が消えるわけではない、罪が消えるわけではない。

なぜなら、責任は「魂」に所属するものだからで、肉体が滅んでも、魂の方に付随してずっと付いてくるはずだから、ということになりますね。

こう考えると、死んであの世に行っても、その責任は残っていて魂についてきている。別の人間に生まれ変わって、別の肉体に宿っても、魂に付随する前世の罪、責任は当然のごとく付いてきている。

責任は、魂に所属しているものだから。犯した罪は、魂に内在して残っているから。
だから肉体が変わろうとも、前世にやらかしたことを覚えていなかろうとも、そんな事情とは関係なく、前世の業・カルマは付いてきます。

これは、概念理解としても正しいと思うし、哲学的抽象的思考としても、正当な思考だとやはり思います。内村鑑三さんの洞察は鋭く、深く、かつ正しい結論であると、私には思えます。


霊魂存在の証拠はなおこの 外 にも 沢山 にあります、正義を愛する念の如き、 殊に良心の命令という一種異様の現象の如きは、確かに我々の肉躰以外に、またそれ以上に、一つの確固たる実在物の存する証拠でございます


霊魂の実在、現存の証明は、この内心に感じられる、正義を愛する気持ち、良心から命ぜられる指令、そうしたものを感得する心があること自体に、すでに為されている、という考え方も魅力的ですね。

真に、自分の心を深く深く洞察した、内村さんならではの論証法だと思います。

肉体以外に、肉体を超えたるものが、このわが内に存在するという実感、理解がここにある。魂の直覚。

霊魂とはまずこういうものでありますからこれは何よりも貴いものでございます、この世では貴いものといえばすぐに生命と財産であると申しますが、しかしこれとても霊魂ほどに貴いものではございません、それ 故に聖書には『人もし全世界を得るともその霊魂を 喪わば何の益あらんか』と書いてございます、霊魂を喪うとは勿論これを 汚す事でありまして、その結果終にその 沈淪 を招くことでございます、もし身躰はこれを 裹 む衣服より大切なるものであるとならば、霊魂はなおさらこれを裹む肉躰よりも大切なものであるはずでございます「 生命 あっての 物種」とにも申しまする通りに、世の人は生命のためとあればその所有物を何なりとも差出しますが我々霊魂の貴い事を知るものはそのためにはたとい一命なりとも差出すべきはずのものでございます


あの世の存在を認めず、この世しか存在していない、と主張する人であっても、

生命と財産は尊い! と言うでしょう。しかし魂は、その生命と財産よりも尊いのである! と内村さんは言っています。
これ、唯物論者や無神論者は、ここで言われている意味がわかるでしょうか?

この世の生命も、この世で蓄えた財産も、この世の人生が終わればそこで終わりです。あの世には持って帰れない。
魂だけの姿になって去ってゆくのだから、この魂をこそ、肉体生命や財産以上に大切にするのが本当である、本当でなければならない、と内村さんは言っているんですよね。霊的人生観そのものです。

わたしたちは、身体の上に衣服を着ますが、この衣服よりも、身体の方が大切だと当然のごとく思っているでしょう。自分の身体よりも衣服の方が大切、という人はいないでしょうに。

それと同じく、魂がまとっているところの肉体の方が、魂そのものよりも大切と思ってしまったら、これは本末転倒である、ということですよね。

先にもあったように、人は時として、家族を守るため、あるいは愛する祖国を守るために、みずからの肉体生命を捨てて戦わねばならない時がある。戦争のときは特にそうですね。

この時に、たとえ肉体生命を失おうとも、魂の気高さ、崇高さを失わずに最期の瞬間を迎えた魂は、栄光と共にあの世に帰れるのだと思います。

それは、主従のうち、主である方の「魂」の欲する願いのために、やむなく肉体生命を捨てるしかなかった、それ以外の選択がなかった、という場合の、戦争における死であり、愛する者や国を守るという大義のための死であったからですね。自己本位の死ではないからであって、この極限状況の中でこそ、魂と肉体の本当の意味での関係への洞察、達観がなければならない。そう思うです。

肉体生命を軽んじてはいけないし、自己本位の理由による死の場合は、これは基本、許されない死ということになるので、だから宗教では禁止されていますが、利他のための止むをえない死、大義のためのやむをえぬ死に関しては、この限りではない。

戦国時代には、自分の命と引き換えに、家臣や家族、住民の命を救ってもらいたい、といって割腹した武将も多いですね。こういう死は、魂の尊厳のために、あるいは他者への愛ゆえに、みずからの肉体生命を終えるしかなかった、という特殊な例の死であり、魂は光の中にあったに違いないと私は思うのです。