仏教では、この世界は無常だと教えられます。だから、どんなに一緒にいたいと思う人も別れてゆかなければならないし、どんなに大事にしているものも失う時が来る。
しかし、私たちはどんなに現実に無常を経験しても、また、常があると思って我を作ってしまう。
だから、どんなに無常を経験しても、無常が分からないものが私たちです。
では、なぜ我を作ってしまうのか?
それは根本的に私たちは自分の存在に対する不安を抱えているからです。
私たちは無常が来ないと思って安心して我を作ると我を拡大してゆきます。
色んなものに我をつけて、それが変わらないものだと思って、安心しようとします。
そうやって自分の我の世界を広げて安心すると、それが何か一つでも崩れると不安になります。
だから、我を拡大すればするほど、無常に触れる経験が増えてゆき、不安になることも多くなります。
そうなると、不安になりたくないから、ますます我を強くして、安心しようとします。
そうやって現実は無常が来ているのに、見ようとしない為、我が崩れることもなく、心の中に抱える不安が大きくなってゆくのです。
だから、無常を受け止めてゆくには、我を小さくする必要があります。つまり、本当に必要なものだけに我をつけて、それ以外は、思い通りにならなくて仕方ないと思う必要があるのです。
私たちは整理をしても、自分の家や車、家族に対して我をつけて思い通りにしたいと思っています。
よく歳を取って一人暮らしをしている人が、子供から一緒に暮らそうと言われて、断る人がいますが、それは一緒に暮らすとなると、思い通りにならないことがいっぱい出るからです。
何でも思い通りにしたいという心。それは我が強くなっている証拠であり、心の中にそれだけ多くの不安を抱えているのです。
だから、そんな人ほど、我を小さくして、無常を受け入れる必要があります。
無常を受け入れるとは、自分の中にある不安を吐き出すということです。
そして、吐き出したら、もう一度、不安を溜めないように、思い通りにならない環境に身を置くことが必要です。
私たちは我を作っても、我を作っても崩される環境にいてこそ、無常を受け入れることができるし、受け入れたならば、どんなに我を作っても、心の中に不安があれば、不安を無くしたいと思います。
そうやって不安を無くしてゆく為に、無常を受け入れてゆくのです。
無常を受け入れるには、心の中に溜まった不安に気づかなければならないのですね。