親鸞聖人は正信偈に私たちが苦しみから離れられないのは疑情一つが原因なんだと教えられています。
この疑情とは何か?
それは阿弥陀仏の本願を疑う心を言います。
阿弥陀仏はどんな極悪人でも救うと誓われているのに、悪人は助からないのではないかと思う心が疑情です。
ここで阿弥陀仏がどんな極悪人でも救うと誓われているのだから、私も救われるのだと信じれば救われると思いがちですが、実際は色々なものに価値を置いて、自分を価値のある人間と思っているから救われると信じられるのであって、死によって価値を失い、価値のない悪人の自分になったら、救われないと阿弥陀仏の本願を疑っているのです。
そして、この助からないというのは、阿弥陀仏だけでなく、この世の中で誰一人も救ってくれる人はいない、価値のない悪人になったら、みんな自分を見捨ててくると思う心なのです。
この疑情は価値のある所に立っている時は起きません。だから、阿弥陀仏を信ずれば浄土に往生できるのだよと言われても、疑いなく信じることができます。
これは疑情がないから、疑いなく信じることができたと思いがちですが、実際は価値にしっかりとしがみついて、自分は価値のある人間だからと思っているので、阿弥陀仏の救いを信じているだけであって、無常が知らされて価値を失うと、途端に自分はこんな悪人だから、みんなから見捨てられるのではないかと不安になります。
この時、阿弥陀仏を信じなさい、必ず浄土へ連れて行って下さいますよと言われても、こんな自分は誰もそばにいてくれないのだと不安になり、阿弥陀仏の救いを信じることはできません。
疑情は価値という光を失った時にしか見えません。この時、日頃は阿弥陀仏の救いを信じている人も信じられなくなり、不安になり、本当に見捨てないのか、こんな悪人は助からないのではないかと不安になるのです。
この疑情は阿弥陀仏の本願を聞くかどうかは関係ありません。私たちの心に元々あるものであり、価値を失った何もない自分は誰もそばにいてくれない、自分を置いてみんな見捨ててくるという心が疑情なのです。
誰もが悪人だと見たら見捨てます。でも、世界でただお一人阿弥陀仏だけはそんなものでも見捨てず、私はどんなことがあっても見捨てないので、信じてくださいと誓われているのです。