人は必ず死ぬ。自分にも死がやってくると知らされてくると、誰もがこのまま死んでゆくことは嫌だと思うようになります。
それは死とは自分の存在がすべて消えてしまうように感じるからでしょう。今自分だと思っているものは、みんなの中でこれが自分だと認識してもらって初めて自分だと感じるものです。
仏教では、この自分を我と言われ、私が私だと思って、イメージしている自分のことです。
この自分は生きている時はもう間違いなく存在しているものですが、死を目の前にすると、この自分は消えていってしまう。死を真面目に考えるとそう感じます。
だから、死は自分の存在の消滅のように感じるのです。だから、せめて自分はここに生きてきたのだと証明したい。自分がここに生きたのだという証を残したいと思うようになります。
たとえ自分がこの世からいなくなったとしても、自分はここにいたんだと思ってくれる人がいて欲しいと思うようになります。
そして、それが悔いなき人生になることだと思って、この世に何かを残そうと努力してゆきます。
そういう人は確かに人生を真面目に生きている人と言えるでしょう。しかし、この人にも見えてないことがあります。
それはこの世で如何に自分の名前を残したとしても、私自身が生きている時はこんな人間だったということを忘れてしまいます。
考えて見てください。私がこの世に生まれてきた時、自分の前世は何だったのかと覚えていますか?
みんな忘れています。だから、過去世、どんなに有名人になったとしても、偉人だったとしても、それは今の自分には何の関係もないのです。
だから、どんなに生きている時に生きた証を残したとしても、死んでゆく時には、すべて夢幻と消えてゆきます。
ただ残るのは、自分の人生は何だったのかという後悔だけです。
じゃあ、悔いなき人生にするにはどうしたらいいのか?
それは本当の意味で死んだ後も続いてゆくものは何かを知らなければなりません。
その為にはこの世界に執着するのではなく、自分に目を向ける。この世界の人に自分の存在を見てもらおうと思うのではなく、この世界を離れて自分は旅立ってゆくのだということを深く自覚することです。
この世界の人が誰も認識しなくても、自分は存在している。その自分に目を向け、この自分を成長させてゆくことが人生の中でやらなければならないことなのです。
本当の人生の意味に気づくことこそ、悔いなき人生にしてゆく為に大切なことなのですね。