私たちは外界の事象にとらわれています。たとえば、生きた証を残そうとするのも、この現実世界に自分が生きたことを証明しようとするからです。まるで自分が死んでも、この現実世界に生きた証が残ればいいと思っているようですが、大事なことを見落としています。
それはどんなにこの世界で素晴らしい結果を残せたとしても、死んでゆく時にはすべてを置いてゆかなければならないからです。
私たちは誰しも自分はこういう人間だと思っている自分があります。そして、その自分が価値があることを証明しようとして、生きた証を残そうとします。
多くの人はこの自分が本当の自分だと思って、死んでも残ると思っていますが、いざ、死を目の前にすると、この自分は夢のように消えて分からなくなります。
この時、この自分しか知らなかった人はこの自分が消えると、自分が何者か分からなくなり、心は不安に包まれます。
本当は自分は何者か分からない、自分に無知なものが私たちであり、死んでも残る自分を知ることが人生をかけてやらなけれぱならないことなのです。
実際はこの自分が死んで無くなると、醜い自分が現れます。しかし、私たちはこの醜い自分が自分だと思えないから、醜い自分を否定します。否定してこれは自分ではないと思うのです。その為に自分とは何者か分からないのです。
この醜い自分こそ、本当の自分であり、生きている間に、この醜い自分が見えても否定せずに受け入れるようにならなければならないのです。
しかし、私たちは生活を通して醜い自分が見えると猛烈に否定して、見ないようにします。
たとえば、他人から馬鹿にされると、そんな馬鹿にされるような自分だと思いたくないので、馬鹿にした相手を責めます。
でも、本当は馬鹿にされることで、自分のことを馬鹿にされるような自分だと思っても、それを否定せず、これも自分なんだなと受け入れないといけないのです。
仏教とは、この醜い自分を受け入れる教えであり、醜い自分が見えても、否定せずに受け入れる為に修行に励むのです。
醜い自分を見ないようにして、価値のある所に立つ生き方から、醜い自分を受け入れる生き方に変わること。
それが私たちの死を不安なものから穏やかなものに変えるのです。