仏教では無常が教えられています。無常というと、よく物は目には見えないけれども、刻一刻と変化していることを指して無常という人がいますが、仏教ではそういうことを無常というのではありません。
どんなに物が刻一刻と変化していても、私たちの目には同じものとしてとらえる。だから、私たちの実感としては、物は変化していても、変化しているようには感じません。
しかし、この変化していないように感じるのが怖い。
なぜなら実際に相手の気持ちなど自分の言動によって不快な思いをして、相手は私のことを嫌だと思っていても、表立ってその気持ちを表さないから、私たちは相手は変わらない人だと思って見てしまう。
しかし、そうやって大丈夫だと思って、相手が不快な思いをするような言動を続けていると、ある日突然バッサリと人間関係を断ち切られる。
そこで初めてうろたえて、謝ったとしても、もう元の関係に戻ることはありません。
無常とは、無常が起こるまでは、何事もなくいつものように毎日が過ぎてしまい、ある日突然無常が来ると、どんなに後悔しても元の状態に戻ることがないもの、それを無常と言います。
だから、私たちは無常が来るまでは、無常が来るなんてないのでと思って毎日を過ごしているし、無常が来た時にジタバタすれば、まだ間に合うと思っています。
しかし、現実は無常が来てからでは手遅れなんです。
そこであくら反省しても、やり直すことはできない。
そういう意味で、私たちは安心しているけど、ある日突然当たり前だった日常が崩れるかも知れない、そんな不安な世界の中に生きているのです。
だから、今生きている世界は無常の世界なんだと意識して、世界を思い込みで変わらないのだと見ることなく、細やかに見てゆくことが大事です。
無常というのは、突然来るように感じますが、現実は無常が来る前に刻一刻と変化している。
その変化に対して敏感に反応して大事にしてゆけば、人との関係も自分の体も長く保つことができる。
当たり前の世界を当たり前だと見ずに、ちゃんと見る。
そうすることによって大事なものを失うことなくて済むようになるのです。