仏教に諦観という言葉があります。
これは真実を明らかに観るということですが、私たちが普段使っている諦めるの語源となっている言葉でもあります。
私たちは諦めるというと、頑張ることをやめて放棄するというように使っていますが、仏教で諦めるというのは、自分の都合によって現実を歪めて見ようとするのではなく、ありのままに見ることを言います。
例えば、自分はできる人間だと思っていたのに、無様に失敗してとします。その時、私たちは自分は今回は失敗したけど、それはたまたまで、本当の自分はそんなことをしない人間だと思おうとしますし、まわりの人からも自分のイメージ通りの人間として見てもらおうとします。
だから、言い訳をして、自分の失敗を小さく見ようとします。
でも、仏教で諦めるというのは、そんな言い訳をして、自分を取り繕うとすることをやめて、潔く失敗したことを認めることを言います。
起きてしまった事実をどんなに見ないようにしても、現実が変わる訳ではない。起きてしまったことを認めて、これから少しでも良くしてゆこうと努力してゆく。
それが仏教でいう諦めるということです。
諦めたら、怒ることも責めることもない。穏やかに現実を認めて、より良い未来になる為にタネを蒔いてゆくしかないと思えるようになるのです。