死んだ後に取り返しのつかない一大事が待っているということ。私たちは人を善人、悪人と分けて、悪人は責めてもいい、否定してもいい、馬鹿にしてもいい、罰を受けても当然だと思っています。それは自分が善人に立っている間は報いはやってきませんが、悪人になった時に自分が悪人に向けていた刃は自分へと返ってきます。生きている時は、価値のある所に立っていますが、死ぬと生きているときに手に入れた価値をすべて置いて死んでゆかなければなりません。この時、価値を失っても、自分は価値のある人間だという所に立っていたいと思う私たちは、悪を責めることによって、正しい所に立って自分の価値を保とうとしまう。だから、臨終になると、今まで自分のやってきた悪が見えて、その悪を責めずにはおれないのです。自分を責めることは苦しいことだから、楽になりたい一心で、刃の矛先を他人に向けて他人を責めずにはおれなくなる。そして、他人を悪く悪く見て、少しの悪でも大きな悪のように思って責めずにはおれません。このように自分が正しい所に立つ為に、現実を歪めるほど、その時は楽になりますが、その報いで自分のちょっとした悪も大きな悪と見えて責めずにはおれなくなる。だから、小さな苦しみが縁となって、どんどんと深い苦しみへと堕ちてゆき、苦しみが更なる苦しみを生み出して苦しみから抜け出すことのできない世界が後生の一大事です。この後生の一大事は苦しみを少しでも楽になりたいと思って目先の楽に飛びつく所から生み出されてゆきます。そして、小さな苦しみが大きな苦しみへと変わるほど、苦しみに耐えられなくなって、楽になりたい、楽になりたいともがくことで、更なる深い苦しみに堕ちてしまうのです。やがて、苦しみの休む暇もない無間地獄へと時間をかけてゆっくと堕ちてゆくのです。仏様は一度この後生の一大事が起きたら、いつ抜け出すことができるか分からないから、仏出る時節を記したまわずと言われています。