我とは、あるべき姿に固定して、それに合わないものを否定する心。だから、自分があるべき姿の通りに生きている間はいいが、あるべき姿の通りに生きることができない現実がやってくると、刃が自分の元へと襲ってくる。つまり、今の自分ではダメだと思ってしまうのです。
たとえば、みんなは当たり前のように働いているのに、私は働いてない。この場合、あるべき姿は働くこと。そして、あるべき姿から外れた現実とは働いてないこと。そうすると、我が刃を向けて自分を襲い、自分は働いていないなんてダメなんだと思ってしまう。
あるべき姿はいつも自分を責めて、あるべき姿に合わせようとする。そして、頑張ってもできないと自分のことをダメな人間だと烙印を押す。
みんなダメになりたくないから頑張って、あるべき姿に合わせて生きている。なぜ合わせるのか分からず、ただ合わせることで安心して生きている。
そうやって多くの人は我に合わせるだけで安心して、自分が何のために生きるのかを考えることなく人生を過ごしている。そして、そのまま人生が終わってゆく。
じゃあ、あるべき姿に合わせられなくなったら、考えるようになるのかと言えば、やっぱり自分はダメな人間なんだと思うだけで、思考が固定して、誰もダメなんて言ってないのに、ダメだと思い込んで、その考えから離れることができない。
この我という縛りから離れて、この世界を自由に生きるようになることが解脱。私たちはこの世界を自由に生きていいはず。でも、我があるから、それに固執して世界をいつも固定して見ようとしてしまう。
我が離れることは難しいが、真に自由に生きる為には我から離れなければならない。我から離れることこそ、自由へと道なのですね。