仏法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば 弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり
阿弥陀仏に救われたならば、阿弥陀仏のお力によって現実と向き合う信心を頂く。この現実と向き合う力こそ普通の人にはできないことであり、阿弥陀仏に救われた人は心で様々な障りが起きたとしても、信心がそれを乗り越えて、現実と向き合うことができる。阿弥陀仏に救われたから幸せになるのではない。どんなに都合の悪い現実であっても、その現実と向き合い、原因は自分の心にあると気づき、自分の種まきを変えてゆくことで、幸せになってゆくのです。もちろん現実と向き合うのは、阿弥陀仏に救われなくても向き合うことができる。しかし、それは善知識から直接教えを聞かなくてはならない。求道とは、ただ教えを聞いているだけでできるものではない。それは自分の都合の良いように聞くだけ。都合の悪い現実でも、そこから逃げずに向き合うには、力が必要。それにはまず現実から逃げずに向き合う人が必要。その最初の人が阿弥陀仏に救われた人。そして、その人から教えを直接聞くことで私達は現実と向き合い、求道をしてゆくことができる。現実と向き合うことは苦しいこと。だから、心の中からは、現実と向き合わなくてもいい理由が次から次へと浮かんでくる。この浮かんでくる自分にとって都合の良い理由を邪業と言います。この邪業に対して、自分自身がそれが正しいと信じてしまうと、自分の思い込みで現実を歪めて、間違った判断をしてゆくのです。そして、自分の都合の良いように現実を見るほど、迷いが深くなり、より苦しみの底へと堕ちてゆくのです。そういう意味で苦しみから抜け出せるかどうかは現実と向き合い、如何に自分の心を反省できるかどうかにかかっており、善知識から直接教えを聞かなくても
できるのは阿弥陀仏の救いしかないので、阿弥陀仏の本弘誓願を増上縁と言うのです。