一形悪をつくれども 専精にこころかけしめて つねに念仏せしむれば 諸障自然にのぞこりぬ
どんなに自力が強くて、心から吹き上がる悪がやまらなかったとしても、そんな悪人でも見捨てない阿弥陀仏なんだと思って、心を一つにして阿弥陀仏を念じたならば、阿弥陀仏が私を許して下さるように、自分自身のことも許せるようになって障りが自然に取り除かれる。
苦しみはどこから生み出されるのか?
それは悪をしている自分を自分が許すことができず、自分を否定してしまう所から生まれる。私たちは悪は否定すれば無くなると思っている。だから、悪いことに対して厳しい罰を設けて、悪を止めさせようとする。しかし、どんなに悪を否定したとしても、悪が無くなる訳ではない。それどころか、悪をしてしまう自分のことを許すことができなくなり、それが障りとなって苦しむ。障りとは、悪をしている自分を認めると、自分で自分のことを否定して苦しむこと。だから、私たちは苦しみたくないから、自分は悪をしていないのだと正しい所に立ち、善人の自分にしがみつく。しかし、そんな私が心から善をしようと励んでみると、自分の心では悪が次から次へと吹き上がることに気がつく。その悪をやめようとしてもやめられない自分。こんな自分はどうしたらいいかと悩むと仏様は、そんな悪をしている自分も許して下さる阿弥陀仏を念じなさいと勧められる。だから、一心に阿弥陀仏を念ずると、悪をしている自分を責めて、良くしようと思うのではなく、自分は悪がやまらないものだと認めて、自分で自分のことが許せるようになる。だから、障りが自然に除かれるのです。