自分がちゃんと仕事をしなければならないと思うほど、怠けている人に対して責めずにはおれない。でも、仏教では相手を責めると、それがどんな相手であったとしても、自分に跳ね返り、責められないようにきっちりやらなければならないと思って、頑張るようになる。
でも、それはきっちりやりたいからやるのではなく、きっちりやらなければ、責められるという思い込みからやっているだけ。だから、理想の自分を演じるために、自分の心を我慢させて頑張り続ける。そして、自分の心を我慢させるから、自分の心から醜い心が次々と吹き上がり、こんな醜い自分なんて消えてしまいたいと思うようになる。それでも、自分は醜い自分を見せることができず、理想の自分を演じる為に頑張り続けてしまう。
しかし、そうやって、理想の自分が認められて評価されたならば、ますます、自分の心を我慢させて理想の自分を演じなければならなくなるから、ますます心からは醜い自分が吹き上がり、こんな自分なんか消えてなくなりたいと思うようになる。
そのうち、自分が何のために頑張るのかも分からなくなると、まだ理想の自分が崩れる前に、綺麗なイメージのまま、死にたいと思うようになる。
今死ねば、醜い自分をさらけ出すことなく、みんなの心の中には綺麗な自分のまま残すことができる。そして、自分が死ねば、自分の心の中にある醜い心も消すことができる。そんな思いから、最後は自殺してしまう。これは仕事では成功している人ほど、自分を追い詰め、自殺を選ばせる。
本当は醜い自分を誰かにさらけ出して受け止めてもらえたならば、この苦しみも少しは和らぐのに、綺麗なイメージを持っている人ほど、さらけ出すことができず、苦しむ。そして、この苦しむ自分を死ぬことで消してしまったら、楽になれると思ってしまう。でも、そんな気持ちで死んだならば、その人の望んでいるように魂がバラバラになって、更なる苦しみの底へと堕ちてしまうのに。
智慧がなければ、些細なことから、自分を苦しみの底へと追い込んでしまうのですね。恐ろしいことです。