不如実修行といえること | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

不如実修行と言えること 鸞師釈してのたまはく 一者信心あつからず 若存若亡するゆえに

阿弥陀仏は無碍光と言いながら、無碍光に照らされず、真実が知らされない人がいる。それはどんな人なのかと言えば、一つには、その人の信心が厚くない。厚くないとは、何かと言えば、薄いということ。薄いということは、その人は思い込みだけで、仏法を信じていて、本当には仏法が分かってない。だから、調子のいい時は、元気に道を求めてゆくが、何か都合の悪いことがあると、もう道を求めることは止めたと言って、投げ出してしまう。これを若存若亡という。

本当の信心というのは、都合の悪い時こそ、今こそ現実と向き合い、自分の心を見つめてゆかなければならないとなるのだが、自力の信心というのは、我の信心。自分ができる所に立っていたいという所から、自分が善人の時だけ信じている信心。だから、自分の我が崩れそうな現実とぶつかると、こんな惨めな自分は見たくないと思って、現実と向き合うことなく、都合のいいように現実をねじ曲げてしまう。そう言えば、このような人は今まで現実と向き合うことなく、現実が少しでも見えると、こんな自分は見たくないと思って、現実から逃げ出していた。信心とは、自分が調子のいい時だけあるものではなくて、自分の調子の悪いときこそ、現実と向き合わなくてはならないと、逃げずに立ち向かうもの。しかし、自力の信心にはそういうものはない。いつも嫌な現実から逃げ続けているものが自力の信心の特徴なのである。