大聖易往とときたまふ 浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人とぞのべたまふ
お釈迦様は阿弥陀仏の救いはどんな人も救うと誓われているから、浄土には往きやすいと説かれているが、悪人は救われないと思って、阿弥陀仏の救いを疑っている私たちは、阿弥陀仏がおられながら、目が見えず阿弥陀仏の存在が分からない人であり、阿弥陀仏がどんなに大きな声で説法していても、その声を聞く耳がない人と言われるのです。
阿弥陀仏はどんな極悪人も救うと誓われているが、私たちは悪を責めているので、悪を許すことができない。それどころか、悪は存在してはならないとまで思っている。だから、自分の中に悪があると悪を責めるし、他人に悪が見えると悪を責めてしまう。そして、責めてしまう自分のことも嫌いだと思っている。だから、こんな悪を無くしたいと思って善に励んでいるのに、見えるものはばかり、そうなると、こんな悪を持っている自分は駄目だと思ってしまう。本当はこんな悪を持っているものこそ救われると思わないといけないのに、悪が見えると駄目だと思ってしまう。これが浄土を疑う人のこと。阿弥陀仏はどんな極悪人も救うと誓われているのに、自分は悪を持っていてはいけないと否定するから、浄土へと往生することができない。こんな人は阿弥陀仏がおられるのに見えない人であり、阿弥陀仏が声を限りに叫んでいるのに、耳が無くて聞こえない人と言われるのです。