昔、製薬会社かどこかのTVコマーシャルで「自然は大きなホスピタル」というコピーがありました。
今は放射能の影響で雨の日は肌が濡れないように注意しないといけませんが、かつては土砂降りの日にずぶ濡れになりながら歩くのが好きでした。
滝のような雨に打たれていますと、なんだか自然と自分とが一如となっている感じがして心が癒されたのを覚えています。
人間は元々自然と共に日々の生活を営んでおりました。「自然」という言葉を用いていちいち「客体化」する対象ではなく、その存在を特別意識することもないほどにそれは人間の暮らしを取り巻いていたのだと思います。
その意味で自然と人間は一体となって生きてきた。
雨に打たれていますと、現代人が忘れかけている(大袈裟に言えば)「太古の人間性」・「洞穴時代の感情」のようなものが蘇ってくるのでしょうか。
だから、「癒される」のでしょうか。
そうだとすれば、生命体としての原点にときどき立ち返ってゆくことは、心身の本質的健康にとってとても大切なことのようにも思えます。
ふるさと福島の美しい自然がいつか元通りになりますように。
自分の人格が形成された愛する郷土で、この一度限りの人生を全うできますように。
先は見えねど、どこかに必ず続いている果てなきかのような線路。福島市内某所。
午前中に「さわやか三組」の記事を書いておいて、夜にややしかつめらしい記事を書くというのも随分気分の浮き沈みの激しいひとだな~という印象を与えてしまうかもしれませんが、しかし感情の浮沈が著しいことはもうバレバレのような気もしますので、いちいち取り繕わないことにします(苦笑)
6月頃から体調が悪く、日増しに悪化しているように自覚しています。正直なところ、精神的に肉体的に絶不調な状態からなかなか解放されず、「う~、辛い。苦しい」という実感が心身にまとわりついている感じです。
もはやそうした状況は慢性化しているのでしょう。
ただ、こういう時にときどき思い出す大学時代の恩師の言葉がありまして、先生の研究室を訪ねた際何気ない調子で言われたことでした。時がたってご本人に「あのときこんな風に仰られた内容を思い起こすときがあるんです」と説明しても、「え?そんなこといったっけ」と先生はすっかり忘れてしまっているようですが、そのくらい何気ない言葉だったのだと思います。
大体こんな内容でした。
「苦しくてしかも出口が見えず、それにも拘わらず歩き続けていると、ある瞬間ストーンっと落とし穴のようなものに落っこちて、気が付くと真新しい世界にそれが通じていて、まるでそれまでの苦しみがウソだったかのように感じられる。そんな瞬間ってのは本当にあるものですよ。ただそういう類の落とし穴にストーンっと落っこちるには、直面している問題から逃げることなく誠実に向き合い続けなければならないんだけどね。」
この言葉は非常に印象深く、あれから10年近く経った今でも心の支えとなっております。
ところで、「臨界点」という用語がありますね。これは、その時点に達するまでは外形的には何も起こっていないのに、その沸点のようなところまで達した瞬間、事態を一変させる出来事がはじけ飛ぶわけです。
卑近な例で申せば、「お風呂をたてる」それに似ているでしょうか。
湯船にお湯を張ろうと、お湯をドーっと流し続ける。流せど流せどなかなか溜まらない。しかし表面張力ギリギリまでお湯が張ります。そこが「臨界点」で、その先は、一滴でもたらせばもはや表面張力は崩壊し、お湯が湯船からあふれ出すんですね。
そこに来るまでには、ひたすらひたすら耐えて待つしかない。自分が崩れ落ちるのではないか、という土俵際の俵に足が掛かってもギリギリ寄り切られることなく、ただひたすら辛抱する。
本当に苦しくて苦しくてタマラナイほど苦しいときは、臨界点としての幸運な落とし穴を信じて待つしか実はそこから抜け出す方策はないのかもしれない。
それだけ苦しんだあとに見る別天地は、まごうことなき地上の楽園に違いないことをどこかで信じぬく度量が必要なのかもしれない。
と、少々重たい内容のブログになってしまいました。
多分、ただの睡眠不足なんだろうな(笑)
What keeps the cloud in the sky?
上記のリンクは、アメリカ版ヤフー知恵袋のようなサイトなんでしょうか。素朴な疑問に答えてくれるところのようです。
前回の記事に、英語学習の先輩モンちゃんからコメントを頂きまして、そのなかでモンちゃんがグーグル検索を駆使して、英文法の疑問に道筋を付けようとなさっている手法がとっても興味深く、わたぐすも試してみました。
この場をお借りして、個人的な書き込みをしますが、モンちゃん、a lot of cloudsはググった限りではアリみたいですね。相当数見受けられました。ってそもそもそこを疑問に思うぼくの感覚が間違っているのかも(汗)
まあ、There are a lot of clouds in the sky.で検索をかけて見つけたのが上記のサイトなんですが、載っていた英文が勉強になりました。
以下そのまま引用します。出所は、上記のリンクのサイトです。
What keeps the clouds in the sky?
Answer :
Because each suspended ice and water particle is spread out over a hude expansion of air, and the warm breezes of air from below can hold up each and every individual particle
一見なんということのない英文ですが、赤く示したoverの意味がぼくにはどーもよく分かりかねました。
はっきりしないんです。これはぼくの読解力のなさなんですが。。。。
be spread outに続くoverなんだから普通にイメージすれば、「バ~っと広がっている感じとその広がっている領域」を示すoverなのかなとも思うのですが、
overの後ろを読むと、「大気の膨張」と出てきますよね。
「大気の膨張」とは物理的な現象であって、「釣るされた氷りや水のそれぞれが」広がっている空間あるいは領域ではないような気がします。
むしろそれは、「その原因」、つまり、「氷りや水の粒子がなんで浮かんだ状態で広がっていられるのか??」に対する原因として「空気の凄まじい膨張」が作用しているんだよと。
その原因や手段、理由を示すoverのような気がしてなりません。
う~ん、いつまでたっても、自分の読解力は心もとないです。
なにかお気付きの点がありましたら、お気軽にお知らせください。
中学生用のある問題集に次のような問題が載っていました。
There are a lot of clouds in the sky ! It (will rain, rain, raining, rained) tomorrow.
これを見まして、強い違和感を覚えました。cloudはcloudsとsが付けられることからも分かる通り、可算名詞としても使われます。
辞書にも可算名詞と不可算名詞の用法があると明記されております。
しかし、この例文にはやっぱり強い違和感を覚えてしまうんですよ。
ジーニアスのcloudの項を引きますと、こんな風に書かれています。
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一般的にはUで、ぽっかり浮かんだ一かたまりの雲、むくむくと重なってふくらんでいる雲などはC
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でもこの問題文を最後まで読めば、話し手は空の雲を見て、明日は雨だと判断してますよね。
わたしは気象には疎いんですが、そーゆー曇ってぽっかり浮かんだ一カタマリの雲が沢山空にある、というより、もっと西の空一面を黒い雲が覆っているというような暗雲たれこめる感じの数えられない雲なんじゃないでしょうか??
そうだとすれば、明日雨だなと思わせる雲の描写として
There are a lot of clouds in the sky!
というのはちょっとオカシイような気がしてならないのですが、どうなんでしょう??
どなたか詳しい方がいらっしゃれば教えてください。
さすが稀代の超絶ピアニスト、キース・ジャレット大先生!ピアノを弾く人は多かれど、ピアノを弾きながら、「唸る」、「躍る」、「足踏みする」ピアニストはこのひとだけでしょう!キース・ジャレットは即興の名手としても知られ、いわゆる「ケルン・コンサート」という歴史的なコンサートはその場で即興演奏をし、しかもあまりの美しさに息をのまずにはいられない素晴らしさなのです。特に同コンサートの「パートⅢ」は、透明感の麗しい見事な一曲です。楽譜など存在しません。耳コピーで採譜するしか方法のない曲です。本人でさえ、二度と同じ演奏はできないという伝説の一曲。機会があれば、「ケルンコンサート」も聴いてみてください。
スーツに着替えて、ぼちぼち面接に行ってきます。
去年の教員採用試験の面接でもそうだったのですが、
どーも、ぼくは、面接となるとついつい熱弁をふるってしまって(周りがひくぐらい。。。。汗)逆に変な人と思われる機雷があるような気がします。。。
単細胞で頭に血が上りやすいという欠点がありますゆえ。。。
今日は、控えめな感じで、、、、
なんてヤダね!
進学塾なんで、熱血教師系で行きたいと思います。
でもなんとなく空気は読んだ方がイイかも。。。
ブログは投稿をお休みすると、その存在自体が背景化して殆ど気にもならなくなるのに、投稿を再開すると途端に日常において存在感が増してくるといういつものパターン。
書き込みを休んでいるときは、自分のなかで自然消滅する程度に些末な出来事も、ブログへの意識が復活すると「ネタ」にしてしまおうというイジマシイ情緒が働き出す。
そう考えるとブログは心の自然な作用や流動性を逐一堰き止めて、本来意識化の不必要な事柄を意識内にしばらくぶら下げておく余計な活動のようにも思えてくる。
が、人間の持つ表現欲求は事程左様に強く、なかなか沈黙には耐え得ないのが片腹痛い。
他方、ここまでネットが一般化する以前には、「書き手自分読者も自分」という文脈しか与えられなかった個人の心象的記録が、訪れたこともない土地のお会いしたこともない誰かの極めてプライベートな空間に易々軽々ヒョイっと侵入し、不特定多数(少数か?)の読者を獲得してしまうのだから、その魅力も抗し難い。
と書くとなんだか自分が物書き気取りのようで気恥ずかしくなってきました。
今日は、熱心なキリスト教の信仰をお持ちの幾人かの方々とお会いして、交わりのひとときを持ちました。
私は、自分で言うのもなんですが、談論風発とした言葉の攻防にあって自論を喝破するだけのコトバは持ち合わせているつもりです。
しかし今日は、日ごろのそんな口八丁ぶり(?)もまったく通用しなかった。
なぜか?
彼らは人生に対して明確で絶対的な「答え」を持っている。
こちらがなにを申しても、その絶対的な倫理規範と価値基準で一刀両断されてしまう。
曖昧なグレーゾーンを一切許さぬBlack&Whiteな明瞭至極の世界観を前にしては、タジタジである。
人生に対して絶対的な有無を言わさぬ「答え」を持っているひとたちとは、意見が一致する内容以外は文字通り「話にならない」。
タチが悪いのは、自分たちがそうした極めて鋭いジャックナイフを他者に実は突きつけているという自覚がまるでないことである。
タチが悪いというより、それは恐ろしい。
しかし、ある意味あそこまで何かを信じ込めるひとたちは、生きるのが楽だろうね。
人間、絶対的な答えと共に日々を過ごすことほど安逸な日常はないのである。
またそれは「孤独な狙撃者」として人生を探求する真実知性的な生の営みとは懸け離れた、絶対なるものにあぐらをかいて高みの見物的に斜に構えて世の中を見やる尊大かつ傲慢な心的態度であることは、是非とも指摘しておきたい。
と、決して奴さん連の前では口にする胆力もないことにブログでクダを巻く軟弱な私なのでした。
この数週間、密かに就職活動をしておりました。福島の採用試験の目処が全くたたないなか、最悪に近い目下の状況を逆手に取って、一度社会に出て見よう、社会人を一度経験してからそれを踏み台に教壇を目指そう。そんな風に考えました。毎日ハローワークに通って、毎日履歴書を書いて、ようやく一ヶ所から電話が来ました。来週会ってみたいとのこと。30歳を過ぎたいわゆる高齢フリーターの私ですが、正々堂々と面接に臨んできたいと思います。ダメならまた履歴書をどこかに送り付けてアタックします。高校教諭への夢はお腹に沈め一切口にせず、匂わせもしないように注意したいと思います。
幼いころ、父とよく車で貝殻ひろいに出掛けました。ぼくは貝殻を拾うのがたまらなく好きで、コレクションは膨大でした。いわきや相馬の浜辺までの車中カセットテープが擦り切れるくらい聞いたのがこの曲でした。褪せた想いでが鮮やかになるような一曲です。




