秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3 -3ページ目

昨日に引き続き友人のfacebook投稿文から。


彼女は某語学学校の英会話講師なのですが、この夏休みを利用して新潟・佐渡旅行に出掛けました。


日本海を船で移動しているときの写真に添えられた文を引用してみます。


写真に映るのは大きな青空と広大な海、それを二等分する水平線のみという地球の輪郭を感じさせる眺望でした。こんな景色と対峙したら、頭の中でうごめく嫌な考えなんて一切合切吹き飛んでしまいそう。


"Sailing on a beautiful blue ocean with the most perfect horizon ahead ! "


海の上から彼方に見える水平線、美しく広大な海。しかもその水平線はなだらかに弧を描きこの星がま~るい星なんだと思い出させてくれるかのよう。


そんな光景に感動した心情を投稿した文なのだと思います。


この文を読めばこんな風に意味内容を理解することはできます。しかしそのような眺望を目の当たりにして、これだけ簡潔な英語で情景を描写できるかと自問すれば、今の私の英語力では出来ない相談となってしまいます。


自分なら恐らく、I'm sailing on ..... and I can see the horizon! It's really beautiful !


などと問題なく言わんとしていることは通じるが、3つも文を作ったせいで全体が冗長になり、結果として「感動の密度」が間延びして読み手にとって迫力のない文を書いてしまうでしょう。


そこを友人Kate氏は、あっさり "with the most perfect horizon ahead !"とさばいてしまうところに「ネイティブ」を感じます。


最初このwithは付帯状況のwithだと決めつけていましたが、この場合のwithは単なる前置詞のwithのような気がします。


「ジーニアス英和辞典第4版」で "ahead"を引いて見ると、品詞は副詞とあり、「[名詞の後で]前方の」と書いてあります。


だからここの構造は、with+名詞 という前置詞+名詞という前置詞句であってaheadは副詞として直前の名詞horizonを後ろから修飾しているだけでしょうか。。。


付帯状況に関する構造上の基本は、with+A+BにおいてAとBの間に意味の上での主述関係が成立するということですよね。


aheadは副詞ですから述部として機能する言葉ではないように思われます。


Bに仮に形容詞や前置詞句が来ても、AとBの間にbeingが省略されていると考えれば、A is Bという主述関係は成り立ちますが、副詞では非文法的になる気がします。



しかし私は万年英語学習者なので、思いっきり間違ったことを言っている可能性が十分あります。


お気付きの点はコメントにて教えてください!





最近、すっかりSum41にハマっています。メンバーの殆どが1980年生まれというのも素晴らしい!みんな(特にベースは)童顔で線が細いカマキリのような体つきですが、どこか理知的な雰囲気も漂い、「苦み走った大人の男」の味だって出ている!

彼らの動画を見ていると、うまく言葉では表現できないけど、「世界に羽ばたきたい!(英語を使って世界中のひととコミュニケートしたい!)」という英語を学び始めた当初の熱い初心が漲ってくる気がします!

本当にうまく言えないけれど、なぜか、どうしてかSum41は世界中をぐるっと一回りしたくなるような壮大な地球規模の視点をぼくに与えてくれる!恐らく、メンバーの人間性なんだと思う。

パンクロッカーなんだけど、NoFXに代表されるような恰幅のいい劇悪な印象がまるでなく(ちなみにノーエフ大ファンです)、さながら高校生バンドが夢中でバンドやってるそんな爽快感!

そう、Sum 41は、彼らが高校生のときの夏休み41日目に正式にバンド活動を開始したので、Sum 41なのです!

因みにボーカルのデレクはアヴリル・ラヴィーンの元夫で、大阪のバーで暴行され怪我をしたがそれでも東京公演のステージに立った男!

友人のオーストラリア人英会話講師のfacebook上での書き込みから。


"I don't have a lot of faith in Japanese medicines."


彼女は蚊に刺されたことによるかゆみに悩まされ、薬局へ軟膏を買いに行こうと思っているのですが、今までの経験から日本の市販薬に対しては効能面でイマイチ信用が置けず、母国の薬が恋しいなあ、という心情を書き込んだ投稿でした。


そのなかの一文に上記のセンテンスが出てくるのですが、勉強になったのはこの心情を表現するのに彼女が"faith"を用いていたことでした。


「日本の薬はそれほど信用してない」旨を英語で表現しようとするとき、私ならついつ "I don't trust Japanese medicines so much."などとやってしまいそうです。


「信用する」="trust"という回路が定着していますから。。。。


faithというと、宗教上の「信仰心」をすぐに思い浮かべる私ですが、「ジーニアス英和辞典第4版」を引いて見ると、《人・物・事に対する》(理屈を超えた心情的な)信頼・信用、と出てきます。


これを読むとこのオーストラリア人女性のfaithの使い方は正にこの場面で打って付けであることがよく分かります。


日本の市販薬がオーストラリアの市販薬と比肩して薬効がどうのこうのというのは極めて「主観的な」話しであるように感じるからです。


先ず、人種の違いに起因する体質の違いもあるでしょうし、それぞれの国の薬事法で市販薬がどの程度まで強い成分を含有させられるかも違っているでしょうし、なにより個人差というものがまず考えられます。


ですから、「日本の市販薬は効かない」というのは客観的意見としては成立要件が脆弱で、それは専ら個人としてのstatementの域を脱しませんよね。


ここでもう一度ジーニアスの語義記載を思い起こすと、「理屈を超えた心情的な信頼・信用」とあるのが非常に納得できると思います。



少々強引に定式化すると、「客観的にではなくあくまで個人の心情としてあまり信用していないんだよね」ということを表明したいときには、この方の用いた I don't have a lot of faith in ~ というパターンを使ってやれば上手いこと英語として通じるのではないでしょうか。


ところで、このfaithについてとても印象に残っている使い方があります。


アメブロでブログを書いているあるアメリカ人女性がおりまして、以前ちょくちょくコメントさせて頂いておりました。


その方が「昨晩魔女の宅急便を見た」と書いてらしたので、「私にとって印象的なシーンはキキの法力がきれてしまって彼女がホウキに跨っても空を飛べなくなる場面なんです」と書き込んだところ、


その方は、返事の中で確かこんな感じの一文を書いたことを今でも覚えています。


She lost her faith in her 魔法。


これを読んで、「ああ、英語らしい言い方だ」と感激しました。まさにキキは理屈ではない心の問題として自分の魔女としての才能に自信を喪失していました。自分は本当にこの街で魔女としてやっていけるのだろうか?と。


昔と違って、今はfacebookやブログを通して手軽に英米人の英語と身近に接する機会が潤沢に用意されています。


辞書すら満足に与えられていなかった時代に英語をモノにした、嘗ての碩学たちの苦労を想えば、この時代は語学学習者にとってかつてないほど恵まれた時代なのでしょう。


ありがたいことですよね。




秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


去年の夏、教員採用試験に初めて挑戦しました。結果は不合格でしたが、試験当日を含めてその日までの1か月は淡い感動を伴って蘇ってくる思い出です。


試験も迫っていた昨年の7月のこと。日課となっていた早朝の散歩に出かけると裏庭の草むらに一羽のカラスが伏せっていました。すでに息を引き取っておりました。恐らくちょうどその真上で命尽き、そのまま落下し青草のなかで命の燈火は消え亡骸となっていたのでしょう。


季節はめぐり、夏は過ぎ、秋がきて草が枯れ冬が来て雪が覆い春が来て草花が芽吹き、夏が来てまた青草が茂りました。


誰が捨てたのかまったく分かりませんが、一年経ってそのカラスの亡骸があったまさにその場所に、黒い缶コーヒーの空き缶がぽつんと置かれていました。


聖書にこんな聖句があります。


「一羽の雀も神の許しがなければ落つるにあたわず」


この空き缶ですが、


私は一羽のカラスの死さえも心に留められる大いなる造物主の愛に満ちたさりげないはからいだと思っています。




秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


ふとしたきっかけで思い立った周回遅れの就職活動ですが、書類審査と面接を経て、昨日模擬授業をして参りました。


私が志望しているのは市内の進学塾なのですが、一度授業を見せて欲しいと言われ課題も事前に渡されておりました。


家庭教師の経験はあっても黒板を使用しての授業の経験は皆無に近く、それは教育実習以来でした。


やや大きめの教室へ通されると、審査官は塾長はじめ3名の先生方でした。


定刻通り2時から高校入試英文法の模擬授業に臨みました。


しかし授業開始1分後ぐらいから、塾長は腕を組んで頭を下げ目をつぶって寝ているしぐさを取り始めました。他の2名の先生も、机に肘をついて私の授業などどうでもいいという態度に変わりました。


教室には完全アウェーな空気が漂い始めたことは敏感に感じました。


こうなると逆に好戦的になるのが私の良くも悪いところで、一番感じの悪い塾長をわざと指して、基本的な英語の質問に答えさせましたが、返答は「んなこと言われても分かんねーよ」的な冷たいものでしたが、その後も5,6回は指しました(苦笑)


ところが授業開始15分ほどで、問題も半分くらいして解いていない段階で、突然「はいそこまでで結構です」と打ち切られてしまいました。


授業後は、2つだけ質問されて、あとは「採用の場合は1週間以内に連絡します。連絡がない時は不採用だと思ってください」と言われて塾を後にしました。


私は家庭教師こそ10年ほど続けてきましたが、それはまったくの「自己流」の英語指導であって、生徒を志望校に合格させるという実績を出し続けないと会社として倒産してしまうという重責を抱えた進学塾の教壇で通用するような代物ではありません。


いくらTOEICで何点持っていますとか、英語は得意です、とか子どもと接するのが好きです、と言ってもそんなことは全く通用しない実力主義の世界を肌で感じました。


英語ができる、または得意、ということと、結果が求められる空間で教壇に立って教えるということは、まったく別物であると痛烈に感じました。


教えるには教えるための「技術」が物を言うのであって、塾の先生はそれでご飯を食べているプロです。彼らは生活をかけて仕事をしています。しかもその塾は市内でもっとも教師と生徒のレベルが高いと評判の塾で、私のような自己流なんかがまかり通る場所ではないように感じました。


今回の「プチ」就活で、社会の厳しさの一端に触れた気がしました。


一番痛切に感じたのは、自分勝手な振る舞いや、独り善がりな考え方、そんなものは社会では一切通用しないということでした。フリーター生活が思いのほか長期化して、すっかり身勝手な思考パターンに私はあぐらをかいていたのだと思います。


英語どうこうの前に、根本的な意識を変えないと、社会への門戸は開かれないのだと感じました。



今日のお昼、その塾の担当者から電話がありました。


「9月から英語科の研修を受けて欲しい。その様子を見て本採用かどうかを判断したい」という内容でした。


私のような人間にチャンスを与えてくださったことを素直に喜びました。

そして9月からの3か月余りの研修期間、虚心に指導を受け、全力で準備を行い、出来る限りのベストを尽くしたいと思います。


今与えられたこのチャンスをものに出来ない人間が、それ以上に大きなチャンスなど物に出ないことは明らかです。


元代ゼミの吉野先生(元暴走族のカリスマ古文教師)も、「今頑張れないヤツは、一生がんばれない」と言っています。


そうならないように、出来る限りの最善を尽くしたいと思います。


いつか高校の教壇に立つ日を夢見て。



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英文法の参考書として今や不動の地位を得ているようにも思える『FOREST』ですが、世評の高さを裏切らない分かりやすさと奥深さはやはり出色の出来栄えだと思います。と、私なんかが偉そうなことは言えないのですが。。。(汗)


今日前半を読み返してFood for Thoughtとして一番「肴」になった内容について少し書いてみたいと思います。


上掲書の53ページに次のような例文が載っています。


I always drink coffee at breakfast.


これは習慣的に繰り返される動作は現在形で表すという文法事項のために書かれてある例文ですが、非常に興味深く感じたのは、atという前置詞がこの場面で使われているということでした。


この例文の和訳として、「私は朝食の時にはいつもコーヒーを飲む」という訳が付されていますが、逆にこの日本語を読んで英作文してみなさいと言われてbreakfastの前に前置詞atを置くことができるだろうか?と自問すれば、残念ながら私は思いつかなかったと思います。


話しを便宜上「朝食」に限定しますが、「私は朝食に~を食べた」と英語で言うときに、I had(ate)~for breakfast. とfor breakfastを用いるのは広く知られていることだと思います。そこで英語学習者の拙い疑問が頭をもたげました。


それは「食事」の前にatを付けるかforを付けるかの使い分けはどのように行われるのかな~。という単純素朴なものでした。


atという前置詞は基本的に局所的な場所、点としての場所を意味するのだと理解しています。もしくは時間でしょうか。それに対してforは方向性や期間を基本的に意味する。それはFORESTの前置詞の項目でも言及されています。


I always drink coffee at breakfast.はあり得ても、恐らくI always drink coffee for breakfast.はヘンテコリンな英文となってしまうと考えられます。


朝食の食卓テーブルを想像してみると、コーヒーはメインではなく、朝食のテーブル上には確かにあるしそれを口にもするが、それを飲んだことを持って朝食をとったとは言えないものですよね。後ろに場所や時間が来るのが基本であるatの後ろにbreakfastが来ているということは、この場合のbreakfastには朝食をとる場所としての食卓の上に置かれているいくつかの食べ物飲み物のなかにコーヒーもありましたということを含意させたいからatを用いているのか、それとも「朝食」を食事の「時間」と考え、その時間のなかにコーヒーも存在していたと考えてatなのか定かではありませんが、もしかしたら食卓という場所と食事の時間の二つの概念に合致し、加えてそれはforを使って目的としてのニュアンスを出すにはあまりにサブ的な存在でありforは決して使えないから、atを使うしかないという事情もあるのかもしれません。


for breakfastとするからには、forは方向性を表すのが基本であり、方向性がより具体化すればそれは目的を帯びることになり、では朝食をとる目的に供する食事の内容は何かと問えば、やはりそれはコーヒーを飲むことではなく、パンを食べるなり、シリアルをかっこむなり、ごはんと味噌汁を食べるなりすること等であると思います。


まとめてみると、それを口にしたからといって朝食をとったとまでは言えない対象のときはbreakfastの前にatを置き、他方、それを口にしたことによって朝食をとったと言っても差支えのない対象に言及するときはbreakfastの前にforを置くのかなと考えてみました。



ただ、ここまで書いて感じる大きな不安は、「こんなことあったりまえだよ!」といった自明のことをぼくはくどくどと考えてしまったのでは!という不安です。その場合は、一英語学習者の無知を憐れんでください(苦笑)


思いつくままにキーボードを叩いたので、途中何を言ってるのか不明瞭な点があると思います。

英語長文レベル別問題集 5 上級編 (東進ブックス レベル別問題集シリーズ)/安河内 哲也
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以前このレベル別シリーズの文法編(レベル標準)を家庭教師の教材として使っていたことがありました。


安河内先生の英語の本は予てから本屋さんで何度も立ち読みしていましたが、上記の文法問題集を購入するまでは、一度も買ったことがありませんでした。


その理由は解説が「物足りない」と感じていたからでした。


しかし、レベル別問題集(英文法標準編)を家でじっくり読んでみると、解説は「物足りない」のではなく、「余計な説明を排除して、シンプルで要点を突いた」ものなんだと気づきました。


英文法の指導は、長文の指導よりもやり易さを感じる英語の先生は多いのではないかな、と想像します。


私の場合は、家庭教師に限って言えば長文指導の方が好きです。内容に深く立ち入って英語に留まらず国語の授業のような感じに話を発展させられるので、そこが教えていて楽しいですし生徒にも評判がいいようです。


ただし、じゃあ塾なり学校の教壇に立って黒板を使用し、手際よく長文の授業を50分で行ってくださいと注文されれば、それは100%私にとっては未知の世界です。


明日第一志望の進学塾で数名の先生を前に模擬授業をする予定です。


もし採用されれば、中高生向けの英語長文の授業も持たされるかもしれないですし、もし不採用であっても、将来的に手際よくまとまった長文読解の授業を行えるスキルは絶対に身に付けておくべきだと思いますので、上掲の安河内先生の本を注文しました。


アマゾンのレビューによれば、採録されている英文自体、幅広い興味関心に応える充実のラインナップ!との評価ですから、解説のみならず文章を読む楽しみも期待できるかもしれません。


本当は東進衛星予備校の先生の授業を一度単科で受講してみたいくらいなのですが、さすがにそれは無理なので(髭ずらの若年性中年男?でも大丈夫なのだろうか。。。)、参考書で何かを学びたいと思います。


ただし、授業は教師が10人いれば文字通り十人十色のスタイルがあるので、あくまで自分らしさを基本にしてその上で取り入れたいものを取捨選択して自分のものとするべきなんでしょう。



本日8月7日まで福島県立美術館にて全国高校総合文化祭の絵画・彫刻部門の出品作品が展示されておりますが、夕方観覧に行ってきました。


高校の所在地に基づいて北から南の順に作品が展示されており、北海道から沖縄までやや足早に作品を鑑賞してきたのですが、一つ気が付いたこととして、自画像や友人をカンバス一杯に描き出したものなど、自分や自分にとって大切な人物を強烈に表現したものが多かったような気がしました。


自分に近しい存在としての友人は、その内面に自分と類似した要素を持っていることが普通で、その意味で結局は友人のポートレイトも描いた本人に潜む内界の何事かを投影したものとも言え、つまるところ自分のなかの隠れたもう1人の自分を間接的に表現したものなのでしょうか。


思春期の高ぶる自意識とそれを何とか制御し一人の人間としての統合と秩序を保とうとする殊勝な試みがそこから垣間見えるような気も致します。自意識であれ劣等感であれ、意識上のことであれ意識下のことであれ、快感情であれ不快感情であれ、内界でうごめく何かの度合いが過ぎると、自我の統合が危険にさらされるため、それらを抑圧したり解放したりという選択を人間は多くの場合適切に行っているのだと思いますが(それらが不適切に行われると「異常な」行動として社会の目くじらの対象になるのでしょうか)、青年期にある不安定な情緒を安全な文脈で手なずける一つの手段としての自己表現活動、そしてそれがカンバスに実に生き生きと顕現したものが、今日見てきた多くの自画像であったように思われます。


それから実に興味深かったのは、(これに気付くのは都道府県ごとに作品が順序されていたことに負うところが大きいのは確かですが)都市に住む高校生とそうではない高校生との間で、表現したい想いのニュアンスに違いがときとして見受けられることでした。


もうそれは実は顕著で、北海道・東北の回廊から首都圏へ地域が変わった途端、物憂げな表情で何かをこちらに訴えかけているような人物像が現れ始めるのです。その視線は何に向けられたものなのか対象を持たぬかのような目をして教室にぽつねんと坐する女の子。これは一般化などできぬことかもしれませんが、都会生活者というのは、よりゆるやかな地域の人間よりも他者と自分という自己の相対化が頻繁であり、他者を過剰に意識した上での自分(デイビッド・リースマンの「他人指向型人間」『孤独な群衆』が先鋭化したような存在)と原初的・本来的な自分との間の葛藤がより激しいのかもしれません。2つの相反する自己に引き裂かれそうになりながらも、なんとかその危機を乗り越えようとする過程に心の成長があるのでしょうが、時に一体どの自分が本当の自分なのだろうか、と皆目見当がつかなくなる状況は誰にも経験のあることでしょう。その見当が付けられない心理の現れとして、(大槻ケンヂさんの言葉を借りれば)「この世のどこにも視点の定まらぬかのような目」の女の子が描かれるのかもしれません。女の子とばかり書きますが、展示作品中、自画像は殆どすべてと言っていいほど女子高校生の描いたものなのです。恐らく、女の子の生きている世界のほうが男の子の生きている世界よりも、どこに視点を定めていいのか途方に暮れるほど目まぐるしい同輩集団内での葛藤があり、所謂ピア・プレッシャーが存在するからでしょう。


とにかく、瑞々しい感受性によって捉えられた不安や孤独感、劣等感といったやり場のない感情を率直に世に問おうとする多くの作品に触れ、改めて高校教師への情熱を焚き付けられた気分で美術館を後にしました。


なんだかカルチャーセンターの心理学講座を受講してきてにわか心理分析家にでもなったかのような文体が気に食わない方もいらっしゃるかと思いますが、打ち上げたことをここで申し上げるならば、こうした「自分ってなに?」というとっても青臭い問いを必死に問いかける高校生の姿というのは、取りも直さず、30歳の私自身の姿そのものなのでした。(苦笑)





秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


夏の甲子園が開幕しましたね。


本日付のDaily Yomiuri紙の一面でも取り上げられていました。その英文を抜粋してみたいと思います。


The captains of six high school baseball teams from prefectures affected by the March 11 disaster carry a banner saying, "Ganbaro! Nippon"(Let's hang in there, Japan) at the opening ceremony of the All Japan High School Baseball Tournament on Saturday. Players observed a moment of silence at Koshien Stadium in Nishinomiya, Hyogo Prefecture, for people killed by the Great East Japan Earthquake and tsunami.


「がんばろう!日本」の英訳が、Let's hang in there, Japanとなっていますが、なんだかこう言うと「軽く」聞こえるのは私だけでしょうか? 「がんばろう!日本」のほうがよっぽど魂を感じます。


大抵英語で言った方が力強く響く言葉は多いように感じますが、日本語だって負けていませんね。


赤い字で示した部分ですが(observe a moment of silence)、恐らく「黙祷」のことではないかなと予測しました。


それで愛用している「ジーニアス英和辞典第4版」をぺらぺらめくって調べてみると、やっぱりそうでした。ジーニアスにはこんな風な表現で掲載されています。


observe a miniute's silence 1分間黙祷する


具体的な時間を書かない場合は、デイヨミのようにobserve a moment of silenceとすればよいのでしょうかね。



追記


よくヨガの本などには、「体の中心」、「体の真ん中」などのような言葉が出てきます。自分の体に中心を感じる。それは精神的にはブレない心であり、肉体的には均整のとれた姿勢と深い呼吸のことでしょうか。


心にも身体にも「中心」をじんわり熱く取れるような生き方というのは憧れです。


たとえば、しっかりした木の幹のような在り様。


そうした幹がしっかり軸として自分のなかに定まっていれば枝葉末節に拘泥するような愚を犯さずに済むのでしょうね。

英語|正誤問題の攻略/富田 一彦
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本は読む方ですが、読書中文面を見て我が目を疑ったという経験は恐らく今日が初めてかもしれません。


ドトールでハニーカフェオレを飲みながら、尊敬する代ゼミの富田先生による上掲の問題集を解いておりました。


以下の問題を解答し、解説を読むまででもないなと思いながらも巻末の解説を開くと、我が目を疑うような説明が堂々と書かれておりました。


ではまずその問題から。


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上掲書p55(清泉女子大)


下線を引いたA~Dのうち一箇所誤りがある。それぞれの文から誤りを1つずつ選び、その記号を答えなさい。


8.Hellen Keller, the famous blind and deaf American author and educator, is regarded by many as one of the most remarkable woman in history.


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one of the +複数名詞 という文法事項は極めて有名ですので、すんなり不規則複数名詞であるwomanをwomenに直せばよいと気が付きましたが、解説はそうではありませんでした。


以下その解説を赤い字で書かれてあるものはここでも忠実に赤い字にしてそのまま抜粋することにします。



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解説集p38より


one of the most remarkable womanの末尾womanが誤り。「女性のうち1人」だから、その女性は「複数」でwomansとなる。


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信じられない思いで帰宅し、辞書で確認しましたが「ジーニアス英和辞典第4版」のwomanの項にはどこにもその複数形としてのwomansは記載がありませんでした。


それでもまだ信じられず、今度は「ロイヤル英文法」の100ページを開いてみると、


woman→womenと不規則複数名詞であることがちゃんと書かれていました。


これは単なる誤植のレベルを超えているように思えますが、それともここまで堂々とwomansとなっているということは私の知識の及ばない文法事項が潜んでいるのでしょうか。


日本一受験英文法に精通している方だと仰ぎ見ていた富田一彦先生の本だけあって、驚きが増幅された気分です。


いや、きっとwomansはあり得るんだ。そうに違いない。


それからもう一つ気になったのは問題文本文の英文ですが、


the famous blind and deaf American authorのdeafという単語は、耳の不自由な方を形容する言葉としてなんとなく不適切な印象をぼくは持っています。これは私の勝手な語感なので、決して額面通り受取って欲しくないのですが、blind and deaf Americanは、差別的な表現だなと感じます。


もっと説明的にthe famous American author who couldn't see and hear などとするほうが表現が柔らかくなるような気がするのですが、どうでしょうか。