秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3 -2ページ目

昨晩、facebookにああ~やっと涼しくなってきた。よかった。


みたいなことを書きこんだら、オーストラリアの方が、Bring on Summer !


とコメントしたんですね。


私は、オーストラリアが南半球に位置している(つまり季節は正反対)ことをすっかり忘れていて、


「ああ、この人は往く夏を惜しんでいるだな」と思ってしまいました。


たとえば、go on と言えば何かが継続することを意味しますよね。


on and off と言えば「断続」ですし。onが付くと「続く」イメージがあり、それとその勘違いが


合わさって、Bring on Summer!は 「夏よ、まだ往かないで!」ということだろうと思い込んでしまいました。


ところが、先ほどアルクのHPで調べてみると、bring on という熟語は「持ってくる、連れてくる」が第一番目の語義として書かれていました。


あちらでは、「これから」夏を迎えるのですね!


ということは、Bring on Summer ! というのは「夏よ、来い!」ということなんですね。


ちなみに、アルクHPの英辞郎には次のような例文が載っています。


"I know a cute guy at my work, are you interested in seeing him sometime in this week?"


"Bring him on right now !"


訳) 私の職場に格好いい子がいるんだけど今週会ってみる? 今すぐ連れてきてよ!



私としては、Bring on Autumn !!(秋よ、早く来~い!) といったかんじですwww



若いっていいなあ~と心から思える一曲。歌詞を見てみると、そう思える。ぼくもこの手の英語はあんまり分からないんだけど、とにかく先週の金曜、はしゃぎまくったみたい。バーでクレジットカード出したら上限超えて、追い出された。夜の公園に裸でダイブした。ああ~楽しかった。こんどの金曜も、またバカやろうぜ!みたいな、だいたいそんな感じの内容か????っておおざっぱすぎ!!www

Skinny Dipping in the darkって部分があるけど、記憶が正しければスキニー・ディップって素っ裸で海とかに飛び込むことですよね? むか~し、アメリカ人の友人に日本の温泉も一種のスキニー・ディップだと言われたことがあったっけ。。。


秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


秋ってなんだか


とっても


好きです


ひんやりとした空気。  色づく木々の葉っぱたち。 見上げれば高い空


中学校は 合唱祭  体育祭


ひゅ~と風が渡って  かさかさ落ち葉が 音を立てて


河川敷では  芋煮会


本の栞に  押し花が  なんとなく  似合う季節


メイプルシロップ  銀杏並木  温かい珈琲


厚手のシャツ  チョコレートが新作続々www



ああ 秋に吸い込まれたい


今日は まだ 夏の暑さの余韻 で 汗を かきました


でも 秋の気配を 風のなかに 感じました



写真は ベンチくんが  夏の終わりの 公園に  「座っている」 様子です


どっしりと 頼もしい です







最近、近所のスーパーや量販店に行くと店頭に、あるモラル啓発用のポスターが貼られているのが目に留まります。


それは太い字で「万引きは悪いことです」と書かれたポスターなのですが、その「コピー」がとても興味深く感じられたので少し色々考えて見たいと思います。


たとえば道徳の授業で、「ウソをつくことは悪いことです」と先生が言ったとします。すると生徒の中には、「国語の課題帳のなかでウソも方便という表現を習ったぞ!」と心ひそかにつぶやく子もいるかもしれません。


「~は悪いことです」という文句は「警告文」というより「ステイトメント(意見の表明)」としてのニュアンスをより多く含んでいるような気がします。ステイトメントというのは基本的に聞き流されても反論されても仕方のないものです。「私はこう思います」「ああそうですか」ということも十分あり得ますよね。


このポスターの文句が軽く響いてしまうのは、そこで使われている「悪い」という単語が形容詞であり、すべての形容詞は相対的な価値判断として存在していることとも関係していると思われます。


相対的というのは、それ以外の何かとの関係において(或いは比較において)ということですから、最初から他に違うものの見方があることを前提としていますよね。


だから、「万引きは悪いことです」と言われて、「人間社会は無菌室ではない。バイキンマンがいなければアンパンマンのお話はバイキンマンが悪さをするまでの最初の5分でめでたく終わってしまう。それではちっとも面白くもなんともないではないか。バルカン半島のパスカルと言われたシオランは、善良なるものは創造しないという名言を残しているが、暗黒の宇宙が光輝く地球を生み出しているのだ。そうかそうなんだ!オレが窃盗をすれば、風が吹けばおけ屋が儲かるの論理で巡り巡って結局は社会がより文学的に豊かな空間となることに貢献できるんだ。オレは潔く死の灰を被って悪人の役を引き受けよう」などとまなじりを決し、裏返った正義感に基づいて目の前の菓子パンをくすねる誰かが万が一いたとしたら、私はそのポスターの文言にもごく僅かながら責任を求めたいですね。


ではなぜ「万引きは窃盗罪という犯罪です。刑法上・・・という処罰を受けます」といかめしく構えないのだろう、と不思議に思いました。


その理由を考えて見る前に、タバコを取り巻く状況を見て見ますと、これは非常に肩身の狭い嗜好品となっております。現在販売されているすべてのタバコのパッケージには、喫煙がいかに人体に有害な行為であるかをそれを裏付ける厚労省のデータと共に明記されております。現行の法律で記載が義務付けられているからです。


そればかりではなく、喫煙者は社会的に白眼視され「タバコを吸う」というその事実一つによって人品を疑われる可能性すらあり得ます。私は90年代半ばごろに高校時代を過ごしましたが、そのころは職員室で呑気に煙草の煙をくゆらせる先生(おじさん)がおりましたね。しかし定かではありませんが、それ以降のどこかのタイミングを分水嶺として、タバコというのは諸悪の根源のような存在として多くの人々に意識されるようになった気がします。喫煙者は様々な社会空間から駆逐され、あつらえられた社会の片隅の喫煙所で懺悔させられているのでしょう。


小耳に挟んだ本のタイトルに確か「禁煙というファシズム」というものがあったように記憶しています。それまで長い間目くじらを立てられていなかったものが、一気に堕天して排撃の対象となってしまう。だいたいタバコへの非難が降ってわいたように高じてきたタイミングというのは(医療費の国家財政の圧迫を解消するためとも言われていますが)、なんとなくですがテレビやラジオから卑猥な内容を含んだ番組が次々に消されていったタイミングに近いような印象があります。


あるジャーナリストが『安心のファシズム』という本を書いています。これはどういう本かと言いますと、いわゆるセーフティネットというものを国はバンバン社会に張り巡らせるんですね。国民が健康・安心・安全に日々の暮らしを営めるように社会福祉制度を充実させようとします。これは一方では私たちの生活に大変重要なことですが、他方でそうではない事柄が社会の水面下で進行している。それは実は非常に恐ろしいことなのですね。どういうことか?


人間の歴史を少しでもひも解けば、それは革命や闘争とともに在ったと言っても過言ではないでしょう。日本だってほんの数十年前までは安保闘争があり浅間山荘事件があり、イデオロギー対立が頻発していました。人々は直面する様々な問題を解決するために、手と手を取り合って共闘したわけです。そこには人と人との横のつながりがはっきりと見て取れました。各人が物を考え、自らの思想を持つ。そういう自立した個人というものが多くありました。このような人たちがいる社会というのは不安定であり不穏でもあるが、ある種のダイナミズムのうねりが生き生きとした人間性を担保してくれていたような感もあります。


ところが、社会に平和が訪れ、人々の生活が厚く保障されはじめると、それが「安心のファシズム」のはじまりとなった。アメリカの社会学者のユーエンと言う人は『浪費の政治学』という本のなかで、「人々がバラバラにされてしまった」という示唆的な表現を用いています。もはや人間は隣の誰かと共に社会を改良すべく闘う必要がありません。国や大企業が「幸せな老後」を約束している。必要なサービスはすべて保障されている。こうなると、人は次々に長いものに巻かれていって、ある人は「趣味」に、ある人は「買い物」に、ある人は「ネットという仮想空間でのお喋り」に、といった具合に些末な個人的愉しみの世界にどんどん埋没していって、もはや隣に住んでいるのがどこのどなたかすら分からぬという世界が生み出される。更に悪いことには(安心なことには)、その名前も知らぬ隣人が玄関先で倒れていても、電話一本で専門家が駆けつけ「処理(対応)」してくれるから、余計な人間関係に煩わされることもない。面倒くさいことはなんでも行政や企業に頼みさえすればそれで済んでしまう。道端に転がっている動物の死骸だって市役所に電話をすれば職員がやってきて清掃してくれる。まさに、人々はバラバラ。


こういう状況で何が起こるかというと、官僚や大企業の幹部たちは国民のあらゆるデータを集めようとする。権力に情報を握られるということは、その国民は丸裸にされたも同然ということです。先の「安心のファシズム」に出てくることですが、こうなってくると企業は「東京都台東区×〇の山田太郎さんは、なんという会社に勤めており、夕方5時半に大抵退社。会社からの最寄駅はあそこで、その近くには居酒屋がある。その居酒屋に山田さんのこうした情報を売ろう。そういうことになる。するとなぜか会社が終わって一杯やりたいなあ、と思う抜群のタイミングで携帯にメールが届く。見てみると、目の前の大手居酒屋チェーンからの割引クーポンメールだったりする。思わず足が向いて気が付くとくたびれた背広のまま、手にしたばかりのクーポンで生ビールをぐいっとやって、ああ幸せなんて思っている山田さんだが、自分が吸い上げられた個人情報を基に、まんまと「安心のファシズム」の術中にハマってしまっているなどとは夢にも思わない。もはや、かつての革命の士などというのはファンタジーであって、人々は巨大な権力という見えない檻の中で飼いならされた牙を失った張子の虎のような存在となってしまう。


こうなるとどういうことが予測されるか? コントロールが容易になされてしまう。国民はもはや自分の頭でものを考えなくなったのだから、お上が右だと言えば右に行く、左だと言えば左に行く有象無象になりさがってしまっている。権力が自らの都合により、「タバコはイケナイ代物という扱いにしたほうがいいな」と判断し、バンバンそういうキャンペーンを繰り広げると、誇張して言えば、一夜にして一億総ぐるみで「嫌煙運動」をはじめてしまう。


亭主はベランダでホタル族になり、妻は教育上好ましくない番組内容の頼まれてもいないモニター係としての役目に余念がない。風紀の乱れはよくないという「まっとうすぎる」社会通念を押し付けられ、それをなんの疑いもなく拝受する。社会を管理する側からすれば、国民がクレイジーでないほど統制しやすい状況が生まれてくる。


なんとなく「ゆるかった」昭和から、「鵜の目鷹の目に監視されている」ような今日の管理社会への移行はこのような形で進展したのではないだろうか。。。


話しを「万引きは悪いことです」に戻しますが、もしかしたらこんなソフトで他人事のような警告にもさしてならぬような警告を書いてしまう現代人の心には、上述したような「安心のファシズム」が前後左右から影響をひそかに与えているのではないでしょうか?「万引きは犯罪です」という断固とした態度は、悪と正対して逃げない勇気と気概を要求します。しかしそれは社会の不正に一丸となって立ち向かった古き時代の遺産であり、すでに安心な我々は「万引きは悪いことです」と控えめに呼びかけるしか、バラバラとなった「他者」に歩み寄るアプローチの方法を知らないのでしょうか。


「婚活」ブームだってそう。フリーターの問題もそう。異性に遭遇するのも金とサービスの世界であり、現実逃避は「会社員の山田さんのビール一杯」のように大企業が巧妙に仕組んだ世界であるのかもしれません。って三十路に突入して、未婚、フリーターのオレが言うことではないな。。。。涙







ローマ教皇がiPadから初めてツイートしたという記念碑的な出来事(?)をGreg Schwemというコメディアンが風刺している記事を昨日付のデイリーヨミウリで見つけました。面白く読めたので、一部紹介してみます。





その後、この英文から改めて思い知った英作文のアルファでありオメガであるモットーについて少し書いてみたいと思います。








The following is an excerpt from Benedict's introductory lesson :





"This is an iPad, Your Holiness. It's password protected, so you need to create a password. Something that's easy for you to remember. "





「これがiPadですよ、教皇さま。パスワードで保護するんです。だから何か設定してくださいな。覚えやすいのがいいですよ。」





"God."





「Godだ。」





"Unfortunately, Holy Father, it has to be at least six characters."





「教皇さま、残念ながら、最低6文字は必要なんですよ。」





"Lord Almighty"





「ではLord Almighty(全能なる神)だ。」





"And it also needs a number."





「あ、それと数字も1つは入れないとダメなんです。」





"One"





「ワン(唯一)だ」





"OK : LordAlmighty1. Can you remember that?"





「じゃあ、LordAlmighty1(全能なる神1)ですね。でもそれ覚えていられます??」



最後の一言は最高の皮肉ですよね。権威や名声にまみれたお前さんに、心貧しく神にひれ伏すなんてもはやできないだろうよ。と言いたいのでは?








英文を書き写していて感じたのは、自分が英文を書くときにいかに余計な贅肉で英文を太らせているかということです。つまり、英文ライティングでは昔から言われているように"Simple is Best"という美徳を最後まで遵守することが大事なんだなあと改めて感じました。





特にそう感じたのは、"You need to create a passward."という一文をタイプしたときでした。





自分だったら、You need to create your password.とかYou need to create your own password.などとついつい余分な単語を挟みたい衝動に駆られると思います。





こうした「一文を長く伸ばして書きたい欲求」というのは特に簡単な内容について言及している時に生じる気がします。難しいことを英語で書くときは、語彙力や表現力に乏しいので冗長な英語表現など最初から出来ないのですが、内容が平易になると英語を長たらしくして格好つけたい「スケベ根性」のようなものが出てくるんですね。(苦笑) しかしそれは同時に私が文法を熟知していないという事実とも関係しています。英文法を薬籠中にしている方は、簡潔にして的を射る書き方を可能にする技巧を知ってますが、それをよく知らない私は、whenやbecasueなどの接続詞を多用して、文を不必要に長くしてしまう傾向があります。また一言で多くを言い得る表現の知識も乏しいため、言葉を尽くさざるを得ない事情もあります。





結局は、英語の知識が総体的に僅少であるという勉強不足以外の何物でもない原因をナントカしないといけない、というあんまりな結論に達しました(汗)





がんばります。。。。((>д<))








秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


夏の終わりの心地よい風に吹かれて、河川敷のグラウンドをぼーっと眺めていました。季節の移ろい、特に秋が近づいてくるのを感じるのはとても好きです。



という心境を英作文してみましたが、やはり外国語なので「大味」の表現になってしまいます。



I was in the lovely breeze for a little while and I was gazing the play ground ahead. I like feeling the season gradually turning Autumn in the air.



感想(自評)




「風に吹かれていた」という日本語をどのように英訳していいのか分かりませんでした。I was in the rain.(雨の中にいた)という英語がありますので、それを拝借してI was in the lovely breeze for a little whileとしてみましたが、果たして英語として「まとも」なのだろうか?




それからand I was gazingの部分ですが、以前二つのことが共時的に進行していることを分詞構文で表現しましたら、ネイティブにand I was ~ingという二つの文に直されました。それを思い出してここでもそのようにしてみました。




gaze atというと以前は「じろじろ見る」という表現だろうとばかり思っていましたが、ペーパーバックを読んでいるとこのgaze atが頻繁に出てくるのですね。「じろじろ見る」という行為がそんなに頻繁になされる訳がないと気になっていましたが、この機会にジーニアスで確認してみましたらこんな記載がありました。




(賞賛・驚きの感情・興味を持って思わず)~をじっと見つめる、ぼんやりと見つめる




なるほどなあ、と思いました。これはある種の感慨深い眼差しなんですね。




aheadに関しては、先日紹介した友人kateさんのfacebook投稿文から学んだので早速使ってみました。




feel   と turning の相関は一応「知覚動詞」の構文を意識しました。





上記内容、またはそれ以外でお気付きの点がありましたら、コメント等で教えて頂ければ幸いです。

この1週間ほど、少々悩んでいたことがあり、もうとっくに大人なんだから自分で答えを出さなければと


力んでいましたが、しかしオレなんかの浅知恵にばかり頼るより、信頼できる人に一度相談してみようと思い、バイト先のオーナーに話を聞いてもらいました。


オーナーにはこの6年間、本当によく面倒を見てもらっておりまして、心から信頼しているひとです。


ひとしきり事情を説明すると、オーナーは「それはゴンくんが決めることだけど、ただ最後の詰めを誤らないようにね」とだけ言ってくれました。


「最後の詰めを誤らないように」


そう、本当にそうだ。


自分ではどちらの道も正解のような気がして、正直まったく答えが出せないでいた。


しかし、この言葉を聞いて、自分はこの6年間一体何を目標に頑張って来たのか? という基本的なことに立ち返ることができた。


冷静に考えれば、大学のほうは、あとたった2科目、たった2科目単位を取れば教員免許を申請できるところまで来ているではないか!


「最後の詰めを誤らないようにね」


過日の記事に多くの応援コメントをくださった皆様には、本当に申し訳ないのですが、


塾のほうは辞退することに致しました。塾の夏休みが明け次第、電話をする予定です。


まだ仮採用にすらなっていない状態なので、なんの問題もないはずです。


自分はこの6年間一体なんのために生きてきたのか?


大きな大きな目標である教員免許取得がもう目の前に迫っているのに、なぜ私は血迷ったのか?


オーナーの言葉が胸に響いた。


オレは本当にバカだった。


そして、洞察力と判断力において心から信頼できるひとに相談してよかった。


人生60年生きているオーナーは、やっぱり頼れる存在だった。


自分よ、もういい加減しっかりしろよ!!

降りしきる雨の中、一時間ぐらい雨に打たれて、いつもの河川敷のベンチに座ってぼーっとしていました。


なんだか自然と一体になったような気分を味わえてよかった。


ときどき、文明を忘れて、


世の中も忘れて、


ただただ「生きている存在」としての自分と出会うのもいいものです。


そうしていると、


生まれて、生きて、死んでいく


という自然の摂理のようなもの、そういう命あるものすべてが参加している


純粋無垢で無色透明な基本の原理のなかに


自分が佇んでいることを言葉という理性を介さずに


心に染み入って行きます。


千と千尋の神隠しの歌の中に、


「ゼロになる自分」という歌詞が出てきますが、


人の世に在って、マイナス100になったり、プラス100になったりする


世の中的な計算から身を解放し


ただただ雨音や木の葉から垂れる雨のしずく


などに身を任せていると


そういう「ゼロになる自分」を感じます。


そしてそれは、人間いや、命授かったものの回帰すべき原点としての「ゼロ」


のように思われます。


人間の思念が、プラスやマイナスの概念を見せている。


それは人の世の哀しみや喜び。


そしてそれはとても愛おしい人間の宿命。


ただ、時折、人の世の定めを超越して流れている、


自然の鼓動と一如となる瞬間。


それも美しい邂逅のような気がします。


ときには、雨に打たれてみませんか?


秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3


自宅から10分ほど歩くとそこに川が流れています。堤防にベンチがあり、凌ぎやすい夕方になると本を片手に出掛けて行って小一時間ほどそこに腰を下ろししばし読書に耽るのですが、本から目を上げて正面を見ると、川辺に生い茂った緑が視界いっぱいに広がります。まさにそれがこの写真です。


先日、敬愛する臨床心理学者の故・河合隼雄さんの本を読んでいると概略次のようなお話しが書かれておりました。


ある会社員のひとが仕事を終えて帰宅の途に就く。自宅間近まで来ると必ず目に留まる近所の松の木がある。普段は別段意識することなく、単なる日常風景の一部として背景化していた松の木だが、ある日それが切り倒されていた。すると途端に何か大切なものを一つ失ってしまったかのような気分になる。


こんなお話を枕に置いて河合さんは、いつもの柔和な語り口で次のようにお話しを人生に敷衍させるのですが、それがなんとも言えないくらい素敵なんです。図書館から借りた本で今手許にはありませんので、以下記憶を頼りに私なりにアレンジしてみます。


人は一人では生きられないとはよく言われることですが、一人の人間がこの世の中で生きているということは、途方もない数の繋がりがその人を取り巻いている。正確に言えば、途方もない数のそれらがその人を「支えている」。失って初めて気が付くことの多いそうした無数の何かの一つに、たとえば近所の松の木があったりする。またそれらは思いがけず普段仲の悪い隣人かもしれない。はたまたいつも使っている会社の机かもしれない。いつも何気なく目を通しているブログや、通勤時に聴くお気に入りのラジオ番組かもしれない。詰まる所、意識するとしないとに関わらず、その人の日常に「参加」しているありとあらゆるものが、その人の人生を造っており、一見負の構成要因と思われるものも、何か大切な意味を持ってその人の人生に滋味を与えているのかもしれない。


ふと誰かに言われた言葉。たまたま立ち寄ったコンビニで買ったお菓子。TVで見た遠い異国での事件。まるで小さな粒子の一粒一粒が無限の宇宙空間を形作っているかのように、ささいなことから甚大な出来事まで、その人の人生にいささかでも登場するものは余すところなく、掛け替えのない唯一無二のその人固有の人生というキャンバスに塗られた絵具の一色である。近くから見るとよく分からないその色も、距離を隔てて眺めると見事に全体と調和して欠かせない色に見えてくる。


河合さんの主旨をどこまで汲み取れているか不確かですが、少なくとも私はこんな風に解釈しました。これを先述の河川敷にあるベンチで読んだとき、思わず辺りを見回すと、それまで数えきれないほど見てきた風景のなかに存在している木々や名もなき草花、いま座っているベンチ、目の前を通り過ぎて行く自転車の学生、犬を散歩する近所の人たち。もっと考えを巡らせて、バイト先の同僚、中学時代の級友、あの人この人、その瞬間手繰り寄せた記憶に登場するありとあらゆる出来事。まるで一つ一つの微細な細胞の一片一片が何十億と集まって人体を造っているように、そうしたすべてが自分と繋がって脈打っている命の鼓動の源泉であるかのように感じられてくるのでした。


ともすると自分独りが社会空間の余白にぽつねんと縁なく存在しているかのような孤独感や寂寥感に苛まれがちな現代社会ですが、自分という人間はこの世の中の懐にしっかり抱きかかえられて生きているということ、たとえ無生物であってもまるでそれが生き物の体温を持っているかのように密かにそのひとの人生を温めていること、人体を隈なく走る血管は一本残らず心臓に直結し温かく真っ赤な血潮を伝えているのと同じように、この世界の生きとし生けるものすべてが実は誰も見たことのない森羅万象の根源(それを私は神さまと呼びたいが)と繋がっているのであって、まるで絵空事のような「人類皆兄弟」なる言葉も思いもよらぬ真実なのかもしれないということ。


そんな風に世界を見渡すことって単純素朴に「素敵だなぁ」と思いました。ジョン・レノンの「イマジン」を夢見がちな理想論と一笑に伏すことは簡単ですが、では、そういう人に私は問いたいのですが、夢や理想を語る人が誰もいないとして、一体誰が夢や理想を心に描くことができるのでしょう?


と最後は少し脱線しましたが、日が沈むのが遅い夏の夕暮れ残照を頼りに屋外で読書というのもいいものですね。