「悪いことです」について。 | 秋田いぬゴンの英検1級&英語教師への道3

最近、近所のスーパーや量販店に行くと店頭に、あるモラル啓発用のポスターが貼られているのが目に留まります。


それは太い字で「万引きは悪いことです」と書かれたポスターなのですが、その「コピー」がとても興味深く感じられたので少し色々考えて見たいと思います。


たとえば道徳の授業で、「ウソをつくことは悪いことです」と先生が言ったとします。すると生徒の中には、「国語の課題帳のなかでウソも方便という表現を習ったぞ!」と心ひそかにつぶやく子もいるかもしれません。


「~は悪いことです」という文句は「警告文」というより「ステイトメント(意見の表明)」としてのニュアンスをより多く含んでいるような気がします。ステイトメントというのは基本的に聞き流されても反論されても仕方のないものです。「私はこう思います」「ああそうですか」ということも十分あり得ますよね。


このポスターの文句が軽く響いてしまうのは、そこで使われている「悪い」という単語が形容詞であり、すべての形容詞は相対的な価値判断として存在していることとも関係していると思われます。


相対的というのは、それ以外の何かとの関係において(或いは比較において)ということですから、最初から他に違うものの見方があることを前提としていますよね。


だから、「万引きは悪いことです」と言われて、「人間社会は無菌室ではない。バイキンマンがいなければアンパンマンのお話はバイキンマンが悪さをするまでの最初の5分でめでたく終わってしまう。それではちっとも面白くもなんともないではないか。バルカン半島のパスカルと言われたシオランは、善良なるものは創造しないという名言を残しているが、暗黒の宇宙が光輝く地球を生み出しているのだ。そうかそうなんだ!オレが窃盗をすれば、風が吹けばおけ屋が儲かるの論理で巡り巡って結局は社会がより文学的に豊かな空間となることに貢献できるんだ。オレは潔く死の灰を被って悪人の役を引き受けよう」などとまなじりを決し、裏返った正義感に基づいて目の前の菓子パンをくすねる誰かが万が一いたとしたら、私はそのポスターの文言にもごく僅かながら責任を求めたいですね。


ではなぜ「万引きは窃盗罪という犯罪です。刑法上・・・という処罰を受けます」といかめしく構えないのだろう、と不思議に思いました。


その理由を考えて見る前に、タバコを取り巻く状況を見て見ますと、これは非常に肩身の狭い嗜好品となっております。現在販売されているすべてのタバコのパッケージには、喫煙がいかに人体に有害な行為であるかをそれを裏付ける厚労省のデータと共に明記されております。現行の法律で記載が義務付けられているからです。


そればかりではなく、喫煙者は社会的に白眼視され「タバコを吸う」というその事実一つによって人品を疑われる可能性すらあり得ます。私は90年代半ばごろに高校時代を過ごしましたが、そのころは職員室で呑気に煙草の煙をくゆらせる先生(おじさん)がおりましたね。しかし定かではありませんが、それ以降のどこかのタイミングを分水嶺として、タバコというのは諸悪の根源のような存在として多くの人々に意識されるようになった気がします。喫煙者は様々な社会空間から駆逐され、あつらえられた社会の片隅の喫煙所で懺悔させられているのでしょう。


小耳に挟んだ本のタイトルに確か「禁煙というファシズム」というものがあったように記憶しています。それまで長い間目くじらを立てられていなかったものが、一気に堕天して排撃の対象となってしまう。だいたいタバコへの非難が降ってわいたように高じてきたタイミングというのは(医療費の国家財政の圧迫を解消するためとも言われていますが)、なんとなくですがテレビやラジオから卑猥な内容を含んだ番組が次々に消されていったタイミングに近いような印象があります。


あるジャーナリストが『安心のファシズム』という本を書いています。これはどういう本かと言いますと、いわゆるセーフティネットというものを国はバンバン社会に張り巡らせるんですね。国民が健康・安心・安全に日々の暮らしを営めるように社会福祉制度を充実させようとします。これは一方では私たちの生活に大変重要なことですが、他方でそうではない事柄が社会の水面下で進行している。それは実は非常に恐ろしいことなのですね。どういうことか?


人間の歴史を少しでもひも解けば、それは革命や闘争とともに在ったと言っても過言ではないでしょう。日本だってほんの数十年前までは安保闘争があり浅間山荘事件があり、イデオロギー対立が頻発していました。人々は直面する様々な問題を解決するために、手と手を取り合って共闘したわけです。そこには人と人との横のつながりがはっきりと見て取れました。各人が物を考え、自らの思想を持つ。そういう自立した個人というものが多くありました。このような人たちがいる社会というのは不安定であり不穏でもあるが、ある種のダイナミズムのうねりが生き生きとした人間性を担保してくれていたような感もあります。


ところが、社会に平和が訪れ、人々の生活が厚く保障されはじめると、それが「安心のファシズム」のはじまりとなった。アメリカの社会学者のユーエンと言う人は『浪費の政治学』という本のなかで、「人々がバラバラにされてしまった」という示唆的な表現を用いています。もはや人間は隣の誰かと共に社会を改良すべく闘う必要がありません。国や大企業が「幸せな老後」を約束している。必要なサービスはすべて保障されている。こうなると、人は次々に長いものに巻かれていって、ある人は「趣味」に、ある人は「買い物」に、ある人は「ネットという仮想空間でのお喋り」に、といった具合に些末な個人的愉しみの世界にどんどん埋没していって、もはや隣に住んでいるのがどこのどなたかすら分からぬという世界が生み出される。更に悪いことには(安心なことには)、その名前も知らぬ隣人が玄関先で倒れていても、電話一本で専門家が駆けつけ「処理(対応)」してくれるから、余計な人間関係に煩わされることもない。面倒くさいことはなんでも行政や企業に頼みさえすればそれで済んでしまう。道端に転がっている動物の死骸だって市役所に電話をすれば職員がやってきて清掃してくれる。まさに、人々はバラバラ。


こういう状況で何が起こるかというと、官僚や大企業の幹部たちは国民のあらゆるデータを集めようとする。権力に情報を握られるということは、その国民は丸裸にされたも同然ということです。先の「安心のファシズム」に出てくることですが、こうなってくると企業は「東京都台東区×〇の山田太郎さんは、なんという会社に勤めており、夕方5時半に大抵退社。会社からの最寄駅はあそこで、その近くには居酒屋がある。その居酒屋に山田さんのこうした情報を売ろう。そういうことになる。するとなぜか会社が終わって一杯やりたいなあ、と思う抜群のタイミングで携帯にメールが届く。見てみると、目の前の大手居酒屋チェーンからの割引クーポンメールだったりする。思わず足が向いて気が付くとくたびれた背広のまま、手にしたばかりのクーポンで生ビールをぐいっとやって、ああ幸せなんて思っている山田さんだが、自分が吸い上げられた個人情報を基に、まんまと「安心のファシズム」の術中にハマってしまっているなどとは夢にも思わない。もはや、かつての革命の士などというのはファンタジーであって、人々は巨大な権力という見えない檻の中で飼いならされた牙を失った張子の虎のような存在となってしまう。


こうなるとどういうことが予測されるか? コントロールが容易になされてしまう。国民はもはや自分の頭でものを考えなくなったのだから、お上が右だと言えば右に行く、左だと言えば左に行く有象無象になりさがってしまっている。権力が自らの都合により、「タバコはイケナイ代物という扱いにしたほうがいいな」と判断し、バンバンそういうキャンペーンを繰り広げると、誇張して言えば、一夜にして一億総ぐるみで「嫌煙運動」をはじめてしまう。


亭主はベランダでホタル族になり、妻は教育上好ましくない番組内容の頼まれてもいないモニター係としての役目に余念がない。風紀の乱れはよくないという「まっとうすぎる」社会通念を押し付けられ、それをなんの疑いもなく拝受する。社会を管理する側からすれば、国民がクレイジーでないほど統制しやすい状況が生まれてくる。


なんとなく「ゆるかった」昭和から、「鵜の目鷹の目に監視されている」ような今日の管理社会への移行はこのような形で進展したのではないだろうか。。。


話しを「万引きは悪いことです」に戻しますが、もしかしたらこんなソフトで他人事のような警告にもさしてならぬような警告を書いてしまう現代人の心には、上述したような「安心のファシズム」が前後左右から影響をひそかに与えているのではないでしょうか?「万引きは犯罪です」という断固とした態度は、悪と正対して逃げない勇気と気概を要求します。しかしそれは社会の不正に一丸となって立ち向かった古き時代の遺産であり、すでに安心な我々は「万引きは悪いことです」と控えめに呼びかけるしか、バラバラとなった「他者」に歩み寄るアプローチの方法を知らないのでしょうか。


「婚活」ブームだってそう。フリーターの問題もそう。異性に遭遇するのも金とサービスの世界であり、現実逃避は「会社員の山田さんのビール一杯」のように大企業が巧妙に仕組んだ世界であるのかもしれません。って三十路に突入して、未婚、フリーターのオレが言うことではないな。。。。涙