小湊を発って次の目的地である秋田県三種町の鹿渡へ向かいます。
4月頭に東京の能澤先生より頂いた資料中に、長年調べていた山田霊光師の晩年を秋田のHさんという方が世話されたという情報があり、早速電話帳を調べてみましたら、鹿渡にはH姓が固まった場所があって、これなら目当てのHさんに辿り着くのはそう難しくないだろうと判断した訳です。
到着して一件目のH家では全く手がかりが無く(あとで判ったことですが、全てが血縁という訳ではなく、何系統かあるそうです)、早々に退散する他なかったのですが、フト思い立って、目についた禅宗寺院で尋ねてみることにしましたところ、なんと御住職が霊光師について少し御存じで、目的のHさんがまだご存命であることが分りました。
ただ、15年ほど前に引っ越されて今は車で40分ほど行ったところにお住まいということでしたので、電話連絡の労を取って頂き、すぐに取材許可が下りたのは幸運でした。
Hさんは80歳過ぎの老紳士で、お嬢様とたまたま帰省中だという大学生のお孫さんが出迎えてくださいました。
二時間ほど御話を伺うことが出来ましたが、なんとHさんは故山田孝男先生の若かりし頃のスブド仲間なんだとか!
霊光師との出会いは、Hさんが二十代の頃に十菱麟さんのアパートで会ったのが最初だと思う、ということでした。
横島の川口屋さんが亡くなられた後、お世話する人が居なくなったので霊光師を秋田に呼んで最期を看取られたということです(秋田はかなり長いこと住まわれたそう)。
ここがかつてのHさん宅で、現在は駐車場になっていました。
Hさん宅の壁には、山田霊光師と“法印様”の御写真が飾られていました。
この法印様の御写真は霊光師旧蔵品ということでしたが、以前頂いた能澤先生提供のものとも違っていて、初めて目にするものです。
Hさんも霊光師より法印様の驚異の法力について度々聞かされているようで、高野山の書庫の扉が法印様が近づいただけで自動ドアのように開いた話は山田孝男先生が書かれているのと同じ内容ですが、他に世に知られていないものもいくつか聞かせてくださいました。
例えば、ある時、目も見えない、耳も聞こえない(したがって喋れない)少女を連れた両親が法印様を訪ねて来たことがあり、おなごでこれは余りにも不憫と思われた法印様はシッディによって目を開いてあげたそうです。
また、ある時、R寺の観音像が盗難にあったことがあり、泥棒が船で運び出そうとしても結局波で舟が押し戻されてしまい、決して島の外へ出られなかったこともあったとか。
「法印様の不思議な法力の話は、霊光師からたびたび聞かされたが、当時は嘘とも本当ともわからないまま、そんなこともあるのだろうと考えていた」(山田孝男『マジカル・チャイルドの記憶』p130)。
霊光師直筆の富士の色紙も飾られてありました。
“良霊”というのは別号のようです。
晩年に霊光師が綴られた覚書のようなノートが大量に保存されていました。
コピー機があるので複写しても良いと言って頂いたのですが、何分量が膨大で大阪からドライブして来ている身としては、それだけの余力がなかったので断念。
Hさんには本当にお世話になりました。
また再会したい出会いでした。