古典の流儀学問の伝播の話 3 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 日宋貿易で平安時代に入り込んできた朱子学系の中国医学が、日本では江戸時代にまで継承されて行ったということを前回はお話しました。
 中国本土では、騎馬民族王朝の金が中国を支配して、この時代の医療は一旦停滞してしまいます。
 しかし、すでに出版された知識はそこから心ある知識人によって秘術として継承されてゆき、またさらに発展をしてゆきます。
 これらの医術もまた、戦国時代、中国でいうと明の時代の日本に伝わります。
 この時代は海賊たちの黄金時代で、密貿易が盛んに行われていた時代です。
 国際的な海賊貿易商人たちは通称を倭寇と呼ばれていたくらい、日中の交流は盛んでした。
 医術もこのルートで伝播したことは間違いありません。
 これらの医術を、日本では後世派と呼びました。
 またの名を金元派といいます。
 そう、宋朝が滅びた後に発展した医学の後継者なのですね。
 これがやはり、江戸時代に一代流派となります。
 逆を返せば、中国本土ではこの宋代、金・元代の身体観が全ての基本となっている。
 いまでも中国武術は陰陽五行で身体を解釈します。これはその時代の考え方です。
 そういう意味で、現代に至るまでの中国武術の、そしてアジアの伝統的な身体観としては、この宋代の文化的パラダイム・シフトが最も直接に大きな土台としてなりたっている、と言えそうです。
 ちなみに、印刷と並ぶもう一つのパラダイム・シフトである火薬の発展が興ったのもこの時代です。
 ただ、兵器として実装して汎用化したのは中国側ではなくて騎馬民族側 でした。
 元寇のときに彼らが使っていた「てつはう」が最初の火器として取り上げられているのはこのためです。
 水滸伝では震天雷という大砲が騎馬民族相手に使われていますが、あれは実際には逆だったようですね。
 火薬ではなくて油を活用したものはすでに古代からあったようなのですが、火薬というところがポイントです。
 これによって、のちの明の時代には当たり前に火器による攻防が行われていました。
 つまり、私が何度も繰り返している、中国武術というのは火器ありの時代の武術だよ、というはこういうことです。
 大砲や火槍(グレネード・ランチャーや小銃の類。もののけ姫の石火矢)は通常兵器であり、倭寇との高専で有名だった戚継光将軍は、それらの兵器を使うための基礎として拳法を考えていました。
 このように考えると、また武術への解像度が変わってきますね。
 学問というのは面白い。