前回は近代的自我と大衆を、シャアの仮面に込められた意味を通して書きました。
ガンダムが描かれた70年代の後、私の子供時代である80年代は、ポスト・モダンの時代と呼ばれていました。
私も物心がつき始めて、ませた子供だったのでつねにポスト・モダンとは何か、ということを意識しながらサブカルに目覚めて行きました。
また、当時は宮台教授らによるニュー・アカ・ブームもあって、知的であることがかっこよいことだとされていました。
ではこの、ポスト・モダンとは何か。
これは、モダン、つまり近代化の次、という意味です。
産業革命後、世界は近代化をしました。近代的自我と言う物が市民の必須のものとされました。そしてその先にいまは達しつあるので模索しよう、というのがポスト・モダン運動だと解釈しています。
このポスト・モダンには、ダダイズムやレヴィ=ストロースの構造主義があると言えましょう。
つまり、シャアが否定した物たち。非理性的な物への再評価の流れです。
人は教養や知性が無くても、良い生き方が出来るのではないか、という、教養主義へのカウンターで在り、ある種の孟子的な性善説のニュアンスを感じます。
シャアを否定するアムロはニュー・タイプという天性の感覚によってある種の悟りに向かいつある存在ですが、人には本来そういった正しく生きる感性が備わっているのではないか、というのがこのポスト・モダンには強かったように思います。
本来、子供たちのための駄菓子であって大人になったら成長して見向きもしなくなるはずのマンガやアニメに大人が夢中になることも、そのようなポスト・モダンの土台の上でサブカルチャーとして評価されていました。
なので、サブカルとポスト・モダンは殆ど一体となって広まっていたと言っても良いでしょう。
多くの先鋭的な人々が、自分はロックやSF映画が好きだと言い、いつまでも青春時代を生きると言うことを是としました。
その以前の社会を振り返れば、30になったらもうおじさん、おばさんです。
黒沢映画の中年、初老の人々が、みなせいぜいが40くらいだったというのは良く話題に上る話です。
ポスト・モダンの時代を迎えて、社会の人々は大人になることを先送りにするようになった。
この国に「青春期」という物が生まれたのは60年代になってからです。
50年代までは、若者になって仕事が出来るようになったらすぐに結婚して子供を作っていた。
世界が大きく変わったのですね。
そのようにしてポスト・モダンが当たり前になってことさらこと上げされることさえなくなった90年代、アラフォー・ブームのような物が起きました。
それまではもう、40なんてのは老人だった。初老です。
でも、40はまだ青春時代という価値観が当たり前に広まり、40女性のことを「女子」なんていうようになりはじめた。
80年代末頃には熟女ブームというのがあったのですが、その頃に熟女写真集を出していた女優さんたちは、36から40くらいでした。
それを(非常に野蛮で否定されるべきことではありますが)お笑いタレントたちが「オエー、あんなおばさんの裸誰がみたいんだよ」「毒ヌード!」などと言って笑いものにしていた。
これは、民情がお笑いさんたちの段階にある中で、すでに写真などの芸術界がサブカルチャーの方に先進していた結果のギャップだと言えましょう。
つづく