大衆社会とサブカルチャー 1 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 先日、ちょっと面白い評論を聴きました。

 これ、私が好きだったガンダムに関するお話なのですけれども、シャアってのは下世話な人間や醜い人間を許せなくて、みんな滅ぼそうとしているのは近代的自我の持主だからだ、というのですね。

 私はもう、十年もここで近代化の失敗で愚民化教育が幅を利かせてきたから現在がこのような大衆社会になってしまっているということを書いてきています。

 近代化と言うのは、私が繰り返し書いてきた通りに、一人一人の大人が自分の一挙一投足すべてが社会の在り方に繋がっている物として、行動や発言、思想に社会的責任をもって世の中を運営してゆこう、という社会の在り方で、そのような生き方をしている人の人格を近代的自我と言います。

 これに対して、産業革命によって近代社会は形成されるが、そこには人格の向上やそれをなさしめる教育が存在していないので、人間の大半は大衆となる、というのがスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセット先生の考えでした。

 大衆とはなにか。

 大衆と言うのは意訳で、原文ではMASSーMAN、つまり、沢山いる人、と言った感じの言葉です。

「よくいる奴」「どこにでもいる奴」あるいは「その他大勢」の人々と言ったところでしょうか。

 前述の近代的自我を持った人とは真反対の、何も持たない精神の人。思想や信条、自分が社会なのだと言う認識がなく、責任も覚悟もなくただ自分の欲求と感情だけを中心に生きている人々です。

 産業革命によって、大量生産がオートメーションかされたことでそのシステムに乗っかっていれば自分の生について何も考えなくても生きていける世の中が訪れました。

 そのある種の可処分時間やエネルギーを、社会のために用いる人々は近代的自我を持った「市民」となり、そうでない自己中心の生き方をする人は「大衆」となる。

 結果、ちゃんと生きようとする市民からすると、大衆と言うのは邪で勝手な獣の如き存在だと見なせるようになります。

 そこで、粛清してしまおうというのがシャアの考え方です。

 そして、主人公側のアムロや監督の冨野氏はシャア的考えを否定しているのですね。

 冨野氏自身、学生運動に関わった物の、触れてみればそれがエリート革命であって、一般の人々を置き去りにした頭でっかちな物であることに辟易して左翼を辞めたという経歴の持ち主で、いわばその左翼革命家のイメージがシャアにはある。

 その、市民たちの、社会的役割を表現したペルソナが、あのシャアの仮面だと言うのです。

 これは面白いですね。確かにペルソナには、役割や立場と関連づいた人格と言う意味があります。

 だからシャアは、作中常に肩書や通称で呼ばれ続ける。

 貴種流離譚であり、復讐の意図を持っていたりとガンダムの主人公のような立場に居ながら、決して主人公にはなれないのは、彼がペルソナの人物だからなのでしょう。

 

                                           つづく