かんふーくらぶさんで練習しているときに、やっていた動作とまったく同じ物を北派でやったことがあると、鬼が島の鬼の総大将的な方がやってみせてくれました。
確かに同じ動作でしたが、やはり震脚をしています。
それが自然な中国武術、特に北の中国武術の特徴です。
これどうも、聞いた話によると南船北馬の言葉の通り、馬の上で武器を操っていた時代の名残だという話のようです。
もともと、北の武術の仮想敵は馬賊です。
近代にいたるまで、モンゴルの馬賊の影響を受けた馬賊文化があり、農閑期には集落の自警団が今度は馬に乗ってほかの村から食料を調達していたと言います。
集団で馬でやってきて強襲をかけて、住民を蹴散らしては食料や財産をそのまま馬に乗せてかっさらってゆくには、どうしても馬上での戦闘が必要になります。いちいち乗り降りをしてるような悠長なことではないのでしょう。
想像していただきたいのですが、棒状の兵器を持って馬で走りながら戦うとします。
そうなると、どうしても体が揺られて上下にバウンドしていますよね。
身体が下に落ちているときは、鐙に足が踏ん張れてOKです。力が出ます。
しかし、下から上に跳ね上げられているときは重心が上がってしまうために、なまじ相手を打っても逆に自分がバランスを崩して落馬などしかねないのではないでしょうか。
そのような上下に揺られ続けるリズムの中で戦うために、震脚と開合の工夫が編み出されたのだとのことです。そうやって人騎一体となって馬の移動力を打撃に利用するのです。
これは今でも北の武術をやってると言われることのようで「この技は元は馬ですれ違いざまに落馬させるのに使ってたんだ」などと教わるそうです。
把の武術の画期性というのは、一見そうしているようで実は一般の震脚をしておらず、通常運動と中身が逆転しているところでしょう。
南進した武術の、多くは震脚をしません。
南船北馬とは後付の言葉だと言いますが、あながちこの部分に関しては的を射ているのではないかと思います。
南では騎乗での勢を利用しないのです。
代わりに、船の上でのバランスの揺られを活用するのです。
ここに、把との共通性を私は垣間見ます。
以前、広東南拳で最も有名な洪拳は実は福建少林拳である永春拳より影響を受けたのではないかと推測しましたが、最近また別説を発見しました。
それによると、洪拳は清朝時ではなく、明末にはすでに存在していたというのです。
北派少林拳の紅拳は、発音をホンチュエンと言います。
これは洪拳と同じ発音です。
洪拳は紅拳を土台に考案され、滅びる直前の明朝を守るための結社、洪門で普及したのだと言います。
明朝を開いた太祖は、朱元璋で、号して洪武帝と言います。
朱とは紅と同じく赤、そして紅の発音は洪と同じホンです。
当時の少林拳はまだ僧たちの秘伝で、一般に公開されることはありませんでした。
また、他の多くの武術も馬賊行為をしあっていた都合上、ある村やある都市の自警団を管轄する○○家などの豪族の家伝武術で、外部に公開をするようなものではありませんでした。そんなことをすればたちまち近隣の村の襲撃で手の内を読まれてしまいます。
そのような環境の中で、洪門に入りさえすれば誰にでも学べる公開された武術として普及活動が行われたのが洪拳です。これは非常に珍しいことだったのです。
明末、万里の長城を超えて騎馬民族の女真族が侵略してきます。結局これに敗れて明は亡国となり、女真族の清朝が中国を支配するのですが、その時に最後まで抵抗していた軍閥の将軍が鄭成功です。
彼は福建省人の海賊だった父と日本人の母の間に生まれました。
明朝を助けて活動をしていたため、皇帝から一族の姓である朱姓を賜ります。
皇帝が清朝との対戦で敗れたのちも、台湾に拠点を移して反清復明運動を続けます。
その一つに、台湾における洪拳の普及があったと言います。
話が長くなりましたが、ポイントはここです。
海賊の勢力を率いて軍閥となった彼が洪拳の普及の父となったということは、同じ船でも洪拳の船というのは川舟ではなく、大きな軍艦や貿易船の類であったことが想定されるということです。
船から船に乗り移って切り結ぶ、海戦の武術として洪拳は普及されていた訳です。
そのために、あの平馬と非震脚の発勁が重宝されたのでしょう。
海船の上で震脚をしても、不安定で威力に信頼がおけないのではないでしょうか。
一般に福建白鶴拳や永春拳などの南派拳法の創始伝説が清朝時にあるのに比べて、これは非常に早い時期での確立と言えます。
私たちの鴻勝蔡李佛拳は、清末に洪拳と西蔵白鶴拳とベースに、蔡家拳や李家拳と佛門掌などを加えて創始されました。
この、佛門掌を伝えた師父というのが洪門の人間であり、鴻勝の名を大師に付けたと言います。
この鴻の発音もまたホンであり、洪武帝および洪門の勝利を志としての命名だと言います。
かくして鴻勝館は、清朝を倒すための革命組織である太平天国党に合流してそこで蔡李佛拳を広めることになります。
これが洪門の拳である洪拳を多人数戦用にアップデートさせたものだと言うゆえんです。
草創期の蔡李佛は、海岸の地域で自警団の調練に使われていたと言います。
この、広東省は新会という地域は海賊の襲撃があったので、それへの対策だったと言いますから、やはりこの頃のスタイルは洪拳と同じく船に乗りこんで行って切り結ぶ要素が高かったのだと想像します。
それが、太平天国の時に地上戦をより強く想定した調整をしたことを想像します。
太平天国党は鄭成功と同じく敗北します。
客家の劉永福率いる残党は広西省の同じ洪門組織に合流し、黒旗軍と言う軍閥となって反清活動を続けます。
この時に、武術師範となったのが、あの英雄黄飛鴻です。
負傷した劉永福を、たまたま通りすがった黄飛鴻が治療したのが縁だと言いますが、どうも出木すぎた話のような気がします。
おそらくなのですが、黄飛鴻の父親、黄麒英は南拳五祖の直系の後継者であり、洪拳の高名な拳士であった訳ですから、元々反清復明思想の強い人だったのでしょう。そのため、息子に鴻の字の入った名前を付けた。
薬屋をしていて行商で旅をしながら親子で修行をしていたと言いますが、これも洪門のバックアップを受けてるどころか、メッセンジャーのようなことをしていたのであろうかとさえ思えます。
だとすると、初めから飛鴻は劉永福に会いに来ていたのであり、必然として黒旗軍の師範になったのだと思われます。
かくして、飛鴻は中国の国民的英雄になりました。
p> こうして、鄭成功が洪拳から始めて、太平天国で蔡李佛となり、また黒旗軍で洪拳に戻ったのです。
これは、基本的に同質の武術だからこそ可能だった再アップデートだったと言ってよいでしょう。
洪拳や蔡李佛が圧倒的に広まったのは、初めから家伝の秘密流儀ではなくて、兵士を育成するための合戦武術だったからであり、それこそが南船北馬(すなわち軍による戦と馬賊間での抗争を主目的としているということ)の真の意味なのでしょう。
なお、紆余曲折を経て、黒旗軍の宗主劉永福は台湾民主国の総統となります。
そこで日清戦争における抗日戦を繰り広げますが敗北、壊滅となります。
日本人の血を引く鄭成功の部隊の末裔は日本人との闘争の結果ここで消滅となりました。
こうして歴史で見ると、洪拳も蔡李佛もよくも悪くも日本とは縁の深い武術だと言える気がしてきました。
一般の中国武術が世界に広まるのは、共産党政権下で武術が弾圧され、多くの武術家が海外に亡命してからです。
移民先でしがらみを離れて公開を始めたのをきっかけに世界に知られてゆくようになりました。
洪拳や蔡李佛が、中国武術を代表する存在として異常に広まったのは、共産党の影響に先駆けて、太平天国や黒旗軍の落ち武者が海外に逃亡し、落ち延びた先で巻き返しを狙って布教をしていったためだと私はあたりを付けています。
この背景には、世界中に根を張った、洪門の存在があったことは間違いのないことのないことでしょう。