2019年5月の記事です。
「空手の歴史について」は、何度か掲載しましたが、その少し前の記述です。
柔術は柔道に取って替わられ、剣術は剣道に形を変えました。
両方とも必ず「道」が付きます。剣とか柔じゃ何のことかわかりませんね。
あたりまえですが、「柔道」「剣道」でひとつの言葉です。
それに比べて、空手は、空手と呼んだり、空手道と言ったりします。
これには、それぞれ理由もあることですし、意義もあることなので尊重しなければならないと思います。
「柔」「剣」は一文字ですし、「空手」は二文字で、字数が違いますしね。
「空手」には、柔道や剣道と比較すると暴力的な「悪」のイメージがありました。
空手の暴力的イメージや悪役のイメージは、その破壊力や絶対的強さから、
映画、小説、漫画などを媒介して広まったものであり、事実とはちがうことを知っていただきたいと思います。
黒澤明監督の映画デビュー作『姿三四郎』に引き続いて、1945(昭和20)年に製作された『続姿三四郎』は、
その代表的なものです。
当時は柔道も空手も神秘のベールに包まれていたようで、武術的にはとても変な映画です。
空手関係者だけでなく、柔道関係者にとっても残念な映画だと思います。
これが空手のイメージを悪くした映画か、という観点でご覧になれば面白いかと思います。
この悪のイメージを払拭し、イメージを良くするために「道」をつけたケースもあるでしょう。
あるいは修養や修行の結果、至る「生き方」を「道」と称したのだと思います。
しかし私は、個人的には、「道」を付けずに単に「空手」と呼んでも、どちらでも良いと思います。
琉球時代には「手」または、「唐手」と呼ばれていましたし、明治時代までは、この呼び方が続いていました。
例えば、「イスラーム」はその言葉の中に、帰依や服従、信仰生活を含んでおり、
イスラム教と教えを付けて言わなくても、同じ概念の体系です。
「手」も同じように、「道」を付けて言わなくても、「生き方」まで含めた概念の体系です。
「手」は「空手」に変わりましたが、「道」を付けても付けなくても、
「空手に先手なし」は暴力を否定する、暴力に対抗する、そんな生き方を表した言葉だったのです。
大山倍達先生の有名な言葉に「空手に先手あり、然れども私闘なし。」というのがあります。
これも、同じ意味の言葉です。
戦法を表す言葉ではありません。心構えを表すことばでした。
考え方によっては、「空手」が「武術」で、「空手道」が「武道」であると、
こじつけて考えられないわけではありません。しかし、歴史的に考えて、「手」も「空手」も、
その誕生から「暴力」を否定する武士の「生き方」を継承して伝承されていたという事実を踏まえると、
すでに、「手」という言葉に「道」を含んでいるのだと思えるのです。