南風のブログ

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介護福祉士国家試験受験指導始めました。
社会福祉士国家試験受験指導やってます。
看護学生のための社会福祉読本作成してます。

空手の歴史については、

 

 

この本を参考にしていただきたいのですが、

実は魔が差して、最近、ある本を購入してしまいました。

内容が、あまりにも少なく、得るところが無かったので、消化不良になりました。

空手の歴史については、かなり前(十数年前だと思います)に、

自分なりに調べたものを、ブログで公開していました。

ということで、唐突ですが、過去の連載ブログをまとめて、

公総管(クーシャンクー)の箇所を変えて、

佐久川寛賀先生が中国から持ちかえった15の形を追加して、再掲します。

若干、寸止めの起源である、大学空手の拓空会試合規則のところなどが詳しくなっています。

時代の流れが理解しやすいように大山倍達先生までの先生方の、生年と没年を表記しました。

曺寧柱(1913~2001)先生の生年と没年を調べるというか、割り出すのに苦労しました。

それぞれのデータをご自分でお調べになるよりも、纏めたものを使用する方が便利ですよ。

お読みいただけたら幸甚です。

 

琉球発祥の空手

 簡単に、空手の歴史を辿ってみたいと思います。空手発祥の地は、琉球(沖縄)であることは、多くの皆さんがご存じだと思います。琉球の戦国時代を600年ぐらいからとする考え方と、1100年ぐらいからとする考え方があります。その時代に生まれた戦いの術が、古武術として体系化されたのは江戸時代だと云われています。およそ1600年~1900年までの300年間で形成されたというのが、一般的な理解です。琉球の戦国時代に「殺人技」として生まれた「手」は、平和の時代の中で「活人技」として変化していきました。「殺人拳」が「活人拳」に生まれ変わったのです。江戸時代の後半には、たくさんの空手界の伝説上の人物が登場します。それらについては後述しますが、空手の形の名称にもなっている「クーサンクー(公総管)」が琉球にやってきたのは、1756(宝暦6)年です。総管というのは、中国の軍人の位です。公総管は、中国冊封使の護衛官の役職名です。これらは、国際沖縄空手道無想会の新垣清師範の研究により明らかになりました。

 空手は、先に書いたように、「手(ティ)」と呼ばれていました。少林寺などに代表される中国武術との交流があったので、「唐手(トウディー)」という呼び方もされていました。琉球(沖縄)は、日本本土よりも、距離的に中国に近かったので、中国から来た武術家に拳法を教わったり、中国に修行に行って拳法を習ったりしました。元来、「手」は、師から弟子へ、マンツーマンで伝えられる武術でした。師は、弟子をとる前に先祖の仏前にお線香をあげさせて、「手」を私闘に用いないことを誓わせました。この辺は、今野敏先生の『義珍の拳』を始めとする小説「琉球空手シリーズ」に詳しく書かれています。

 琉球(沖縄)は、階級社会でしたから、多くの場合、士族階級の人が「手」の修行をしました。これらの人達は「武士(ブサー・サムレー)」と呼ばれて尊敬されていました。戦わない武術である「手」ですから、誰が強いという比較はありません。「武士」同志が戦ったという話も「カキダミシー」以外には、あまり聞きません。その強さの多くは、ある人物は、このような芸当ができたとか、ある人物は、敵が攻めてきたときこのように戦ったとか、武勇伝として、語り継がれて残っています。

 

形中心の稽古

 「手」の主な稽古は、形の繰り返しですから、稽古歴30年間には、30年間で練られた形があり、稽古歴40年間には、40年間で練られた形があります。当然ながら、稽古には終わりがないので、50年、60年、70年で達人の域に達していったのでしょう。型は、一生を通して深めていくものだったのです。こう考えると、伝説上の空手家以外にも多くの達人が存在していたことは容易に想像できます。この頃は、流派もなく、月謝もなく、弟子の取り合いもなかったため、上達した弟子を、他の師のところに修行に行かせたりしました。

 「手」は、君主の武術ですから、いろいろな師からいろいろな形を学ぶことはあっても、競争や妬み嫉みとの縁は(表面上は)ありませんでした。「手」を修行する者は「武士」であり、すべての者が同志であるという考え方だったのでしょう。また、師にとって弟子は、自分の心技を伝える存在だったのでしょう。師のもとを離れた弟子は、自分の弟子をもつまで、一人稽古に励みました。基本的に「手」の稽古は、一人稽古です。70年もの長い間、師が付き添ってくれるわけはありませんから、師から10年~20年指導してもらったら、その教わった「形」を、残りの人生をかけて深めていくのが修行だったと考えられます。

 「形」中心の稽古といっても、現代空手諸流派の「形」とは、ずいぶん違っていたということを認識する必要があります。大会出場用の、形試合用の「形」ではなく、実戦に使用可能な「形」でした。各流派によって、「型」と書くか、「形」と書くかは、まちまちです。どちらの表記が正しいかという問題ですが、どちらも正しいというのが正解です。しかし、微妙なニュアンスの違いを理解しておいた方がいいと思います。これは、修行の過程の違いなのです。自分を「型」にはめることによって、「人間技」を「空手技」に固定していきます。ですから、修行の半ばでは、「型」と称します。

 人間技が空手技に量質転化を起こし、空手技が崩れない状態まで、修行が成ったとします。(この辺は玄和会の南郷継正先生の影響を受けてます。)達人の域に近づくにしたがって、固定された「型」を抜け出して、自分の「形」をつくっていきます。ここから先を「形」と称します。ですから、修行の過程を「型」と言い、修行の目標を「形」と言います。その流派が「カタ」と言う時に、「カタ」を修行の過程と捉えているか、修行の目標と捉えているかの違いです。ですから、「型」も「形」も両方正しいのです。私は、修行の途中ですので、過去には「型」と言う漢字を使っていました。自分を「型」にはめて自分の「形」を作っていくのです。その後、国際沖縄空手道無想会の新垣清師範の弟子になり、「型」を「形」に改めました。流派の方針に従って、「形」を修業の目標にしたのです。

 現在の空手は、一人稽古が主ではなく、集団稽古が中心となってしまいました。稽古方法も形中心から、基本稽古、組手稽古中心に変わってしまいました。しかし、強くなりたいと思う人は、誰でも日常的に一人稽古をしています。

 

首里手、那覇手、泊手

 琉球(沖縄)の「手」には、流派はありませんでしたが、師弟関係の中で、得意とする技の流れはありました。師の出身地から首里手、那覇手、泊手などと呼ばれました。「手」は他の文字と繋がると「でぃー」と濁音になりますから、「すいでぃー」や「なはでぃー」と発音したりします。それが系統だって伝えられ、現在の流派のもとになりました。

 琉球空手伝説上の人物に、佐久川寛賀(1786~1867)先生がいます。「唐手(トゥディー)佐久川」と呼称された、大変有名な人です。中国への留学経験があり、「唐手佐久川」と呼ばれ、比較的、中国拳法の影響が少ない「首里手」系の先生だと言われていますが、実は中国から軍事教練の「套路(とうろ)」を輸入した張本人です。これらも、国際沖縄空手道無想会の新垣清師範の研究により明らかになりました。新垣清師範が作成した「佐久川寛賀先生が中国から持ちかえった套路の一覧表」は次の通りです。数字が素数(13)と54と108以外は3の倍数になっていて規則性があります。

 

 佐久川寛賀先生の弟子に、首里手の名人と言われた松村宗昆(1809~1899)先生がいます。一般的には松村宗棍と表記する場合が多いのですが、新垣清師範の研究を踏襲して、ここでは松村宗昆と表記します。松村宗昆先生も、中国に留学経験がありましたが、剣術「薩摩示現流」の達人でもあり、首里手系の「唐手」が中国拳法より剣術の影響を多く受けているのは、松村宗昆先生から始まっていると言われています。空手では一般的な稽古方法である「巻き藁突き」も、剣術「薩摩示現流」の立木打ち稽古を、松村宗昆先生が「唐手」に取り入れたそうです。その後、糸洲安恒先生が「普及型」として創出する「平安の型」の何段という呼称も、松村宗昆先生の剣術「薩摩示現流」からの発想ですし、現在に続く空手の謳い文句「一撃必殺」も松村宗昆先生の剣術「薩摩示現流」からの発想です。松村宗昆先生の奥様が、有名な与那嶺(武士)チルー先生です。一説には亭主より強かったという噂もあります。女流空手家は他に、安慶名ウシ先生や真栄城初枝(メーカー)先生などが有名です。

 松村宗昆先生は、明治時代にお亡くなりになりましたが、比較的新しい時代の人なので、首里手の名人として後世に名前が伝えられて残っています。松村宗昆先生の弟子が糸洲安恒先生で、糸洲安恒先生の弟子が富名腰(船越)義珍先生で、富名腰(船越)義珍先生の弟子が大山倍達(チェ・ペダル)先生です。松村宗昆先生以外にも、中国拳法を学んだ武士がおり、その流れをくむ武士も多く輩出したことから、この時代から「手」は「唐手」と呼ばれることが多くなってきました。

 那覇手の名人には、東恩納寛量(1852~1915)先生がいます。この先生も、琉球空手伝説上の人物です。東恩納寛量先生も、中国福建省にわたって様々な中国武術を学びました。ですから首里手より那覇手のほうが、中国拳法の影響を強く受けています。佐久川寛賀先生と同様に「三戦」の形を、中国拳法から「唐手」に取り入れたのも東恩納寛量先生でした。那覇手系の伝統は、独特の肉体鍛錬を行うことが特徴でした。東恩納寛量先生の弟子の宮城長順(1888~1953)先生は、「剛柔流」の開祖として有名です。宮城長順先生の弟子が山口剛玄先生で、山口剛玄先生の弟子が富名腰(船越)義珍先生の弟子でもあった、大山倍達(チェ・ペダル)先生です。

 泊手の祖と言われている人物は、漂着人「禅南(チャンナン)」から拳法を教わった照屋規箴(1804~1864)先生と、その兄弟弟子である宗久嘉隆(1800~1850)先生で、有名なのは、松茂良興作(1820~1898)先生です。首里手の特長は敏活(スピード)、那覇手の特長は筋骨の発達、泊手は、首里手と那覇手の中間的な技法をもつと言われていました。

 

中国拳法と剣術の影響

 空手の源流は、中国の「南派拳法」であるというのは通説ですし、「唐手(トウディー)」という呼び方からもそのことが伺えます。首里手、那覇手、泊手などに分かれる前にも、中国からの漂着人が琉球に拳法を伝えた例は、多かったのではないかと思います。そして逆に、琉球人が、中国で拳法を学び、琉球に持ち帰った例も多かったのではないかと思います。現に、比較的新しい時代の、松村宗昆先生も東恩納寛量先生も中国に留学経験があります。

 しかし江戸時代に薩摩藩の支配を受けた、琉球(沖縄)王朝の歴史を顧みると、「手」は、中国武術の影響をうけつつも、日本の剣術の影響を強く受け、琉球(沖縄)土着の武術として普及されてきたのでしょう。そしてそれが、幾度となく、中国拳法や剣術の影響を受けながら変化し、発展し、継承されてきたと考えるべきでしょう。つまり、「手」の300年の歴史が、縮図として首里手の松村宗昆先生の人生に繰り返されたようなものだと考えれば理解しやすいでしょう。

 

私が参考にした著作がこれです。素晴らしい本だと思います。こちらはお薦めです。

 

 現代空手の型の多くが、日本刀を持った複数の侍と戦うことを想定して作られていることが想像できます。そのことから、空手は、一対一の「格闘技」ではなく、複数対一人の「武術」であることが考えられます。それは体捌きと運足から想像できます。足の裏で、敵の武器を払う形もあることから、複数の敵は、武器を持っていることが想定されます。少なくとも、沖縄空手道無想会を知るまでは、筆者もそのように理解していました。実は、江戸時代の沖縄空手の「形」の相手は1人でした。

 

糸洲安恒先生

 「唐手」の古流の型を基本型に編成しなおして、集団で学べるようにしたのは、松村宗昆先生の弟子である、糸洲安恒(1831~1916)先生です。糸洲安恒先生の弟子には、富名腰(船越)義珍 (1867~1957)先生の他に、実戦空手家として名前を知られた本部朝基(1870~1944)先生がいます。本部朝基先生は、伝説的な強さとともに、現在でも復刻されている『私の唐手術』『沖縄拳法唐手術』という本を著したことでも有名です。

 富名腰(船越)義珍 (1867~1957)先生の糸洲安恒門下の兄弟弟子である本部朝基(1870~1944)先生は、富名腰(船越)義珍先生と戸籍上は同年齢ですが、実際は三歳年下です。本部朝基先生が12歳の時(1882年)に弟子入り、富名腰(船越)義珍先生は、6歳の時から父より空手の手ほどきを受けたと言われていますが、12歳の時に安里安恒先生に弟子入りしましたので、唐手歴は、富名腰(船越)義珍先生が早く、糸洲安恒先生の弟子となったのは、年下の本部朝基先生の方が早いということになります。

 糸洲安恒先生が、それまで一人ひとりに個別に指導されていた「唐手」を、1905(明治38)年から沖縄の中学校で集団に指導することになりました。そこで、糸洲安恒先生は、集団に指導するために、従来まで継承されてきた型とは別に、普及型を考案しました。これが「平安の形」です。「平安」は、古流の形を分解して、初段から五段まで五つ作られました。その後、新垣清師範の研究で、ピンアン初段~五段は、江南(チャンナン)を分解した事が発見されています。(後に残念ながら没になりました。)

 そして1908(明治41)年に県の学務課に申請して「唐手(トウディー)」と言ったり、「唐手(カラテ)」と言ったりしていた呼び方を「唐手(カラテ)」に統一しました。「個別指導」が「集団指導」に変わった、分岐点として非常に重要な位置を占めるのが、この糸洲安恒先生です。

 このころ武士 たちは、伝承されてきた「形」が「普及形」に変わり、実戦的でなくなっていくのではないかと大変悩みました。糸洲安恒先生のやり方に反対する武士 たちも相当いたことが想像できます。集団指導される「唐手」は、「秘術」であった頃の「手」とどんどん変わっていきます。それとともに、弟子たちにも、目が行き届かなくなっていきます。それを進歩と考えるか、退化と考えるかは、非常に難しい問題です。しかし、なんと言っても、空手の普及の第一歩となった糸洲安恒先生の功績は、非常に大きいのではないかと思います。

 

柔道と剣道と空手

 嘉納治五郎(1860~1938)先生が、講道館を設立し、柔術を柔道と称したのが1882(明治15)年のことです。囲碁、将棋から段位制を取り入れたのも嘉納治五郎先生です。1895(明治28)年には、剣術をはじめとする武術の振興を図る全国組織として「大日本武徳会」が設立されました。「大日本武徳会」は、1905(明治38)年に武術教員養成所を開校します。その翌年1906(明治39)年に「剣術形」と「柔道形」を制定しますが、剣術の形については、流派間の葛藤があってあまり普及しませんでした。1912(大正元)年にやっと、「大日本帝国剣道形(のちに「日本剣道形」となる)」が制定されました。これが正式に、「剣道」と言う言葉を使った最初の試みとなります。そして1919(大正8)年には、西久保弘道先生が、乱立していた剣術各流派を統合し、「武」本来の目的に適合した武道および「剣道」に名称を統一しました。さらに、大日本武徳会武術専門学校を、武道専門学校(~1947(昭和22)年)に変更しました。

 糸洲安恒先生のもと、「空手(唐手)」に呼称を統一したのが、1908(明治41)年ですから、順番でいくと「柔道」が一番古く1882(明治15)年、「空手(唐手)」が二番目で1908(明治41)年、最後に「剣道」で1919(大正8)年ということになります。

「柔道」と「剣道」と「空手道」で、どれが歴史的に古いかを競ったり比較したりするのは無意味です。いずれの武道も、古い歴史を持ちながら、比較的新しい時代に、武道として確立されたということです。確立された年を比較すると、その差はせいぜい20年から40年程度です。「柔術」「剣術」「手」の歴史や伝統が、いかに古いものであると言っても、「柔道」「剣道」「空手」の歴史は、大威張りで競うほどのものではありません。しかも空手は、未だに「空手」と言ったり「空手道」と言ったりして決まりがありません。大学の部活動でも「空手部」と「空手道部」と二種類の呼び方に分かれます。そして、「柔術」と「剣術」と「手」の歴史になると、「大体このぐらい」という程度しか判りません。大きく違うのは、「柔道」や「剣道」が呼称や名称の統一とともに、流派という概念が薄れていったのに比べて、「空手」は、呼称の統一とともに、流派の概念が生まれ、その後分裂を繰り返すことになります。「空手」は、「柔道」や「剣道」と逆の道を辿ることになったのです。

 

富名腰(船越)義珍先生

 糸洲安恒(1831~1916)先生の弟子である、富名腰(船越)義珍(1867~1957)先生が、琉球新報という新聞に、「空手の歴史」という文章を書き、「唐手」を「空手」と書くことを始めました。大正時代には、門弟たちと相談の上、自分たちの「唐手」を「空手」に改めたのも富名腰(船越)義珍先生でした。1935(昭和10)年に、「カラテ」の文字を「空手」と表記することを正式に宣言したのも、富名腰(船越)義珍先生でした。

 「徒手空拳」の「空」や「般若心経」の真意である「空」から連想したそうですが、内容が無いという意味にとって反対する意見も多かったそうです。しかし、当時、日本と中国は戦争状態であったために、「唐」を嫌った武術団体「大日本武徳会」からの強い意向によって「唐手」の文字を使わなくなったのも事実だと思います。

 富名腰(船越)義珍先生は、最初に日本本土に空手を伝えた人物として、非常に有名です。しかし、富名腰(船越)義珍先生の弟子の1人に大山倍達(チェ・ペダル)先生がいたことは、あまり知られていません。富名腰(船越)義珍先生は、強かった大山倍達(チェ・ペダル)先生を可愛がり、また頼りにして、外出時には同行させたと言われています。

 富名腰義珍先生は、1922(大正11)年に、日本本土に空手を伝えた後、沖縄に帰らず、東京で空手の指導を続け、1935(昭和10)年に、唐手と空手と両方使われていた「カラテ」の文字を「空手」と表記することを正式に宣言し、姓を琉球式の富名腰から和式の船越に改め、船越義珍を名乗るようになりました。ですから、1935(昭和10)年以前が富名腰(冨名腰)義珍先生で、以降が船越義珍先生です。

 

体育の正課としての空手

 沖縄では、日清戦争、日露戦争が終わるころには、体育の正課に空手が取り入れられ、さかんになってきました。このころ武士 たちの悩みは、秘術でなくなっていく空手をどのように後世に残していくかでした。広く普及する空手は「手」の本質を見失っていきます。この武士 たちの悩みは、その後、残念ながら的中することになりました。集団を指導するための普及形は、体育的効果を狙っていますから、体を大きく伸び伸びと使って、腰を落として足腰に負担をかけます。ですから、体を鍛えるのには向いていますが、実戦で使うのには向いていません。これが、空手修行が「組手」中心に変化していく過程で、「形」稽古が衰退していった大きな理由です。歩幅を大きく取り、腰を低く落とし、受け、突きも力強く決めをつくる普及形は、鍛錬形としては有効ですが、この時から、組手と形は、別々のものとみられるようになりました。

 1889(明治22)年に、糸洲安恒先生の弟子である屋部憲通(1866~1937)先生花城長茂(1869~1945)先生久手堅憲由(1869~1940)先生の御三方が、日本海軍に入隊します。これにより沖縄の唐手(空手)が日本本土に知れることになりました。それが、33年後の富名腰(船越)義珍先生の東京行きにつながります。屋部憲通先生は、1916(大正5)年に富名腰(船越)義珍先生が、初めて日本本土に唐手(空手)を紹介して、4年後の1920(大正9)年に、アメリカ、ロスアンゼルスで空手を紹介しています。

 花城長茂先生は、1935(昭和10)年に船越義珍先生が「カラテ」を「空手」と表記することを宣言する30年も前、1905(明治38)年から「空手」という文字を使用していました。船越義珍先生は、1924(大正13)年ごろから「空手」という文字を使い始め、1929(昭和4)年には、慶應大学唐手研究会が、表記を空手に変更しました。

 

空手の日本本土上陸

 1916年(大正5)年に、京都武徳殿で、富名腰(船越)義珍先生が、「御大典記念祝賀演武」において、沖縄県を代表して演武します。これが、日本本土における唐手(空手)の初公開になります。同年、糸洲安恒先生がお亡くなりになりました。そして、1922(大正11)年に東京で行われた「第一回運動体育展覧会」において、糸洲安恒先生の弟子である富名腰(船越)義珍先生を中心としたメンバーが、唐手(空手)を紹介します。講道館の嘉納治五郎先生の前で、富名腰(船越)義珍先生等が初めて演武した形は「クーシャンクー」や「ナイハンチ」等首里手の形でした。嘉納治五郎先生の強い要請で、富名腰(船越)義珍先生は、そのまま東京に残り、空手の指導を始めることになります。

 琉球手は、薩摩藩との交流を通じて、または琉球国賀慶使や恩謝使の江戸城への派遣を通じて、日本本土に伝えられてきました。しかし、これらは正式ではありません。以前から様々なルートで伝播していた唐手(空手)でしたが、公式的には、空手を日本本土いわゆる内地に、初めて紹介したのは、富名腰(船越)義珍先生ということになります。

 富名腰(船越)義珍先生は、当時56歳(戸籍上は53歳)になっていました。6歳(実際には9歳)の時に「手」を始めたとすると空手歴47年ということになります。ここで、気をつけなくてはならないのは、富名腰(船越)義珍先生が、当時最強だったというわけではないと言うことです。富名腰(船越)義珍先生は、那覇手の湖城大禎(1838~1917)先生に師事したこともあったのですが、那覇手の修行は、体力的に向かなかったため、首里手の修行に戻ったという話が伝えられています。職業が教員だったこともあって、指導者として推薦されて、糸洲安恒先生の後を継いだということになるでしょう。

 空手歴50年、60年、70年の諸先輩を差し置いて、富名腰(船越)義珍先生に白羽の矢が立ったということです。戦わない君子の武術である空手は、試合という概念も、誰が最強かという概念もありませんでした。富名腰(船越)義珍先生は、47年間毎日、形稽古を修練し身に付けた、自分なりの空手を指導したということになるのです。また、空手の名前を世に知らしめた有名な出来事の一つに、同1922(大正11)年、「本部の猿御前」と異名をとる実戦空手家として知られた、本部朝基先生がボクシング興行に飛び入り参加し、ロシア人ボクサーを倒すという出来事がありました。本部朝基先生は、その後、しばらく本土に留まって、空手普及活動をしました。同1922(大正11)年には、富名腰(船越)義珍先生の空手に興味をもった嘉納治五郎先生が、沖縄を訪れます。嘉納治五郎先生の空手への興味は高く、1926(大正15)年に再び多くの弟子を伴い、沖縄を訪れます。その時、嘉納治五郎先生の世話をしたのが、宮城長順(1888~1953)先生でした。宮城長順先生は、その2年後、1928(昭和3)年に、大日本武徳会の武徳祭で演武を行いました。これらの富名腰(船越)義珍先生、本部朝基先生、宮城長順先生が、空手の日本本土上陸の立役者たちです。

 

大学生への4年間の指導

 1922(大正11)年の5月に東京で行われた「第一回運動体育展覧会」において、富名腰(船越)義珍先生等が、日本本土で唐手(空手)の演武(クーシャンクー・ナイハンチ等)と解説を行いました。翌6月には、再度講道館長の嘉納治五郎先生の依頼で、講道館の門弟の前で、唐手(空手)の演武と解説を行いました。その後、嘉納治五郎先生に頼まれて7月~9月まで、講道館で空手の講習を行います。これが、初めての日本本土で空手の指導ということになります。その後、大学生達の入門が相次ぎ、また唐手(空手)についての講演依頼も相次ぎ、富名腰(船越)義珍先生は、なかなか沖縄に帰れなくなりました。1924(大正13)年、富名腰(船越)義珍先生は、講道館の段位の制度を取り入れて「唐手研究会本部」の名称で、初めて段位を発行しています。これはいままでの琉球手には無かった、新しい発想でした。この後、門弟たちと相談の上、自分たちの「唐手」の漢字を「空手」という書き方に改めることにしました。

 1924(大正13)年以前に、空手何段を名乗る記述があるのは間違いです。佐野眞一氏のノンフィクション『甘粕正彦 乱心の曠野』に、「江連力一郎は1922(大正11)年に懲役12年の判決を受けた剣道五段、柔道五段、空手四段の猛者だった」という記述がありますが、このような記述は、残念ながら著者の勘違いということになります。

 1925(大正14)年慶應義塾大学に、本土初の「唐手研究会」が生まれた頃、富名腰(船越)義珍先生は、そのまま東京に残る決心をして、本格的に唐手(空手)の指導を始めることになります。1926(大正15)年には、東京帝国大学(富名腰義珍師範)に「唐手研究会」が設立されます。1927(昭和2)年に東洋大学(本部朝基師範)、1929(昭和4年)に立命館大学(宮城長順師範)、1930(昭和5)年に拓殖大学(富名腰義珍師範)、1933(昭和8)年に早稲田大学(富名腰義珍師範)、1934(昭和9)年に東京農業大学(大塚博紀師範)法政大学(富名腰義珍師範)に「唐手研究会または唐手部」がつくられました。

 その後、富名腰(船越)義珍先生は、1935(昭和10)年に、「カラテ」の文字を「空手」と表記することを正式に宣言し、姓を富名腰から日本式の船越に改め、船越義珍を名乗るようになりました。この名称を日本式に改めるやり方はその後も踏襲され、船越義珍先生の系列の松濤館系の流派は、「平安の形」を「へいあん」と呼び、「ナイファンチ」を「鉄騎」と呼びます。「クーシャンクー」は「観空」です。修得の容易さを考慮したためか、「ピンアン初段」は「平安二段」となり「ピンアン二段」は「平安初段」となり入れ替わりました。「ナイハンチ」は江戸時代は一つの形でしたが、明治・大正期にピンアンと同様、初段、二段、三段と三つに分割されています。「鉄騎」も同じく、初段、二段、三段として指導されました。

 さらに1936(昭和11)年に明治大学(大塚博紀師範)立教大学(大塚博紀師範)、1937(昭和12)年に同志社大学(宮城長順師範)、1938(昭和13)年に京都大学(大塚博紀師範)、1939(昭和14)年に日本医科大学(大塚博紀師範)、1940(昭和15)年に関西大学(摩文仁憲和師範)に「空手部または唐手部」が作られました。その後も多くの大学でそれぞれ師範を迎え、空手部が創立されていきます。

 大学生を中心に、弟子を増やしていった船越義珍先生ですが、広く普及する空手は「手」の本質を見失うという悩みは、どんどん大きくなっていきます。大学生が主流になった、空手を学ぶ若者達は、大学四年間で結果を出すことを望みます。入門者は、強くなることを求めて道場の門をくぐります。空手は戦いの技術ではない。戦わないための技術なのだと言っても通用しなくなりました。どちらが強いかを問わないのが空手であったのにかかわらず、それが商売になると、強い方が顧客を増やすことになります。結局、強さを競うために、大会を開催し、公開試合で優劣を問うことになります。最初のルールに基づいた試合は、1955(昭和30)年に「明治大学空手道場で行われた、明治大学、拓殖大学、慶応義塾大学の三大学合同のリーグ戦です。それ以前の試合は、大学のメンツを賭けた、ルール無用の「喧嘩空手」だったことが想像できます。

 

空手諸流派の誕生

 松村宗昆先生の首里手系は、糸洲安恒先生、富名腰(船越)義珍先生を経て日本本土に伝えられますが、東恩納寛量(1853~1915)先生の那覇手系は、宮城長順(1888~1953)先生摩文仁賢和(1889~1952)先生によって日本本土に伝えられます。宮城長順先生は、1928(昭和3)年に大日本武徳会で演武を行いました。また、宮城長順先生は、初めて「流派」を名乗った人物として有名です。ちなみに、1930(昭和5)年で「剛柔流」です。摩文仁賢和先生は、首里手を糸洲安恒先生から、那覇手を東恩納寛量先生から学んでいたために、糸洲の糸と東恩納の東を合わせて「糸東流」を1934(昭和9)年から名乗りました。

 澤山勝(宗海)先生(1906~1977)が、日本拳法を立ち上げたのは1932(昭和7)年のことで、丁度「剛柔流」や「糸東流」が出来たころの時代です。日本拳法が空手諸流派の「防具付試合」に影響を与えたことは言うまでもありません。

 船越義珍先生は、1939(昭和14)年に、門弟たちの寄付金によって豊島区雑司カ谷に道場を建設し、「松濤館」としました。松濤とは、船越義珍先生の書号でした。後年になって、「松濤館」で稽古をした船越義珍先生の弟子たちは、「松濤館流」を名乗ることになります。船越義珍先生の弟子の一人である大塚博紀(1892~1982)先生は、空手と柔術の和合を目指し、1940(昭和15)年に「和道流」を名乗りました。

 近代空手道の技術体系は、大日本武徳会へ加盟するにあたって、流儀名、本部所在地、代表者名、技術体系、稽古体系などを申告する必要があったために整理されました。この作業は、1935(昭和10)年から1939(昭和14)年ぐらいの間に行われました。

1983(昭和58)年に「空手道拳道会」を設立する空手家、"拳聖”中村日出夫(1913~2013)先生は、1930(昭和5)年から大日本武徳会武道専門学校で空手を学び、1933(昭和8)年から同校の空手指導員も務めました。

 1937(昭和12)年に大日本武徳会が、「唐手術」を、「空手道」として認可すると、初代師範となったのは「剛柔流」の山口剛玄(1909~1989)先生でした。この作業により、近代空手道の形式が整うと、本場の沖縄(琉球)空手から分離されたかたちで、「剛柔流」「糸東流」「和道流」「松濤館流」が日本本土の伝統空手「四大流派」と呼ばれるようになりました。

 戦争の深刻化とともに武道は、稽古する場所と時間を失いました。さらに敗戦後、日本人の弱体化を意図するGHQによって、武道の稽古は禁止されました。GHQは洗脳プログラムによって、世界で最もスピリチュアルな国だった日本から、スピリット(魂)を消滅させようと目論んだのです。戦争に負けるとはそういう事です。GHQの「禁武政策」によって中断していた「空手」は、武道停止通達に含まれていないという文部大臣の公式見解を経て活動を再開します。船越義珍先生を師範とする関東学生空手道連盟が、1949(昭和24)年には、船越義珍先生を首席師範として、「日本空手協会」となり、1950(昭和25)年には、「全日本学生空手道連盟」が発足します。1955(昭和30)年には、明治大学空手道場で、明治大学、拓殖大学、慶応義塾大学三大学合同のリーグ戦が行われます。ここで採用されたルールが拓空会試合規則です。このリーグ戦は他大学も観戦し、ここから「寸止め」の試合が始まりました。その2年後に船越義珍先生が亡くなります。

 「剛柔流」「糸東流」「和道流」「松濤館流」の四大流派を中心に1964(昭和39)年に「全日本空手道連盟」が結成されます。第1回全日本空手道選手権大会は、日本武道館で、1969(昭和44)年10月10日に開催されました。

 この時代には、琉球(沖縄)でも、各流派が乱立し、鎬を削るようになります。本場での「琉球空手」の歴史については、様々な研究者がそれぞれの資料を公開しています。興味がある人は調べてみたら面白いでしょう。沖縄武道空手、武術空手を標榜する各流派は、伝承された形で、大体の系列を推察することができます。「ナイハンチ」は首里手系、「サンチン」は那覇手系です。『沖縄武道空手の極意』という著作で注目された新垣清先生の「国際沖縄空手道無想会」は、ナイファンチを重視する首里手系、知花朝信先生の「少林流」も首里手系、上地完文先生の「上地流」は、三戦から入るので那覇手系、多くの武道家、空手家の憧れの的である現代空手のカリスマ、宇城憲次先生を擁する「沖縄古伝空手心道流」も、三戦から入るので那覇手系です。現代空手では、松濤館流、糸東流、和道流系が首里手系、剛柔流系が那覇手系です。極真会館系は剛柔流系なので那覇手系です。

 

国際空手道連盟極真会館

 「剛柔流」の宮城長順(1888~1953)先生の後継者は、山口剛玄(1909~1989)先生です。山口剛玄先生は、松村宗棍先生と同様に「薩摩示現流」を学んだと言われています。山口剛玄先生が「剛柔流」の師範だった時に師範代だったのが、曺寧柱(そねいちゅう)先生でした。その曺寧柱(1913~2001)先生から剛柔流空手を学んだのが、大山倍達(チェ・ペダル)先生(1923~1994)です。大山倍達(チェ・ペダル)先生は、20歳の時、1943(昭和18)年から船越義珍先生の道場「松濤館」で松濤館流空手を学び、8ヶ月で初段を取得しています。1945(昭和20)年に終戦を迎え、5年後の1950(昭和25)年に、曺寧柱先生に連れられて、正式に山口剛玄先生の「剛柔流」の門をくぐりました。天性の才能をもった大山倍達(チェ・ペダル)先生は、1954(昭和29)年には、わずか4年で「剛柔流」の「教士師範七段」を受けています。比較はできませんが、拳聖と称された中村日出夫先生が、1930(昭和5)年から大日本武徳会武道専門学校で空手を学び、1943(昭和18)年に「大日本武徳会」の「六段錬士」を授与されるのに13年ですから、その凄さはずば抜けています。

 大山倍達(チェ・ペダル)先生が、国際空手道連盟極真会館を発足させ、極真空手の指導を始めたのが、剛柔流教士師範七段を受けた10年後の1964(昭和39)年からです。「地上最強の空手家」大山倍達(チェ・ペダル)先生は、世界中の空手少年たちの憧れの的であり、私も、大山倍達(チェ・ペダル)先生を主人公にした漫画『空手バカ一代』(梶原一騎原作)を読みながら、稽古に励んだ人たちのうちの一人です。そこに描かれていたのは、伝統派「寸止め(ノンコンタクト)制空手」対実戦派「直接打撃制(フルコンタクト)空手」との抗争でしたが、これは後に、全て原作者の創作だったことが明らかになります。漫画では、敵役として敵対していたはずの伝統空手の四大流派のうち二つ「松濤館流」と「剛柔流」は、素質に恵まれ、人柄も良かった大山倍達(チェ・ペダル)先生を、とても可愛がって指導したというのが真相のようです。拓空会試合規則で行われた最初の試合は1955(昭和30)年であり、第1回全日本空手道選手権大会が1969(昭和44)年ですから「寸止め制空手」対「直接打撃制(フルコンタクト)空手」の対立はあり得ませんね。極真会館の第1回オープントーナメントも、1969(昭和44)年ですから、試合形式は同時並行で行われました。伝統派という呼称でイメージされがちですが、戦わない武術「手(ティー)」の継承者たちです。兄弟弟子の新しい試合形式への挑戦を排除することはなかったと思います。『空手バカ一代』の原作者の思惑とは別に、君主の武術の継承者たちには、まだまだ係争より協力の方が似合う時代が続いていました。

 

 

 しかし、その弟子たちの抗争はどうかというと、それは別の問題です。琉球手の時代のように、全ての門弟が、弟子入りする時に、師の先祖の仏壇にお線香を上げて、空手を私闘に用いないことを誓わせられたわけではありません。『空手バカ一代』に触発された若者達が、極真会館のオープントーナメント以外の場で、伝統派「寸止め制空手」対実戦派「直接打撃制(フルコンタクト)空手」の他流試合に明け暮れた例は、とても多くあるのではと想像します。自分もその真っ只中に身を置いていた一人です。私は高校時代に、「防具付き」の試合形式を行っている流派に所属していましたが、極真会館に所属する同輩たちと、フルコンタクトで他流試合やりましたよ。高校生同士ですから、意地のぶつかり合いの喧嘩空手で、負けるわけにいかず、随分痛い思いをしました。そういえば、当時の極真会館のキャッチフレーズは「極真ケンカ空手」でした。

 ただし、その高弟達は、戦わないわけですから、末端の門下生の他流試合は、ほぼ実戦派「フルコンタクト空手」に軍配が上がったのではないかと思います。空手歴10年未満で同程度の空手歴ですと、フルコンタクトの「自由組手稽古」に明け暮れた人の方が、明らかに強くなります。「直接打撃制(フルコンタクト)空手」では、肉体鍛錬を重視します。直接打撃に耐えられる肉体づくりを行います。これは、独特の肉体鍛錬を行う那覇手系の沖縄空手と共通です。肉体的に勝っており、自由組手慣れしている「直接打撃制(フルコンタクト)空手」と、伝統派「寸止め(ノンコンタクト)制空手」が、極真会館ルールで戦えば、勝敗は見えています。しかし、これは空手歴10年未満で「同程度の空手歴では」の話です。空手にはもっと奥の深さがあることも忘れてはなりません。しかし残念ながらその時点では、伝統空手の道場に通っていた者が、同程度の空手歴の者に負けて、極真会館に移籍するという例がとても多くありました。1970年代後半に、これを目の当たりにしたご同輩はとても多いと思います。私は、偶々負けもせず、転向もしませんでしたが、それを目の当たりにし、自分でも経験した「時代の証言者」の一人です。

 

道場空手の変化

 職業空手家として、道場を持ち、月謝で生計をたてる以上、弟子を集めなければいけません。これが、空手の本質が変わってしまった大きな理由でしょう。戦わない約束が出来る者だけに、秘術を伝えるという方式では、道場を維持することができません。それだけでなく、職業空手家は、道場の収益によって、自分や家族の生活も賄わなければならないのです。普及形によって形が実戦と離れていくだけでなく、強さを求める入門者によって空手の本質が変化していったのです。弟子たちの実戦での強さを求めるニーズに対し、組手稽古の是非が検討されるようになりました。船越義珍先生は、自由組手について否定的でしたが、宮城長順先生は、弟子たちの自由組手への要求をそれほど否定しませんでした。大山倍達(チェ・ペダル)先生は、卓越した身体能力で、組手の強さはずば抜けていましたが、形の稽古は熱心ではなかったと云われています。

 その後、地上最強の空手家として、一世を風靡する大山倍達(チェ・ペダル)先生ですが、強いとは、実戦で強いことです。これは、組手を行った場合に強い、また他流試合を行った場合に強いということに他なりません。空手の真実の一つがここにあります。強くならなければ、空手を修行する甲斐がありません。先に述べたように、空手歴10年未満で同程度の空手歴ですと、「自由組手稽古」に明け暮れた人の方が、地味な「形稽古」を続けた人よりも明らかに強くなります。これが「形稽古」が廃れてしまった理由でもあります。空手の指導者たちが、よく「最終的には「自由組手」ばかりやっている者よりも「形稽古」を続けた者の方が最終的に強くなる」ということを口にしますが、「地上最強の空手家」大山倍達(チェ・ペダル)先生は、「自由組手」から生まれたのです。実際には「形稽古」では強くならないという事実が、「形稽古」の衰退を招きました。後に「形試合」が生まれ、現代空手の形は、別の発展をとげることになります。

 

空手流派の分裂

 その後も、空手人口の増加に伴って、空手各流派は分裂を繰り返します。月謝をとらずに志があるもの「武士」だけに伝承された「手」は、門下生から月謝や審査料を集める「空手道場」と変わり始めたのです。門下生が集まる道場は隆盛を極め、支部を増やします。ここに莫大な月謝や審査料、免許料が流れます。「空手」はお金になるように「時代」が変わったのです。プロの空手家の誕生です。実力があり、集客力もある支部長に、相応の師範料を払わない場合、それが不満となり、分裂が繰り返されるということになります。レッスンプロ形式を採用し、道場経営を行っていた流派は、この分裂が多いかもしれません。防具付き試合を採用していた、少林寺流空手道錬心舘も分裂しています。

 空手の商業化に伴って、空手各流派は分裂を繰り返すようになりますが、これらは月謝や審査料の分配をめぐってのことだけではありません。顧客である門下生が、空手に何を求めるかによりますが、強くなることを目標とするなら、強いということをアピールしなくてはなりません。本気で戦うことが不可能な空手ですから、強さを競うために、大会を開催し、公開試合で優劣を問うことになります。それには、ルールが必要です。この試合ルールの是非が、空手各流派の分裂の一因になった事実も否めないのではないかと思います。「寸止め」の次に一般的な試合方式は、「極真ルール(フルコンタクト)」です。しかし、「顔面突き無し」ルールが、空手技のバランスを崩したために、間合い論が衰退してしまいました。このルールに飽き足らない東孝師範が大道塾を立ち上げたのは有名な話です。

 いわゆる、「伝統派」と呼ばれる流派の多くが「ノンコンタクト(寸止め)」という試合方式を採用しています。「寸止めは、実戦に役に立たない」。一世を風靡したマーシャルアーツの怪鳥「ベニー・ユキーデ」がそう言いました。確かに「掛け試し」と「寸止め試合」は違います。実際に「中てる」ことが不可能な以上、試合をするためには、「中てない」方法を考えざるを得ませんが、空手はこの方式の導入により、空手の有段者より喧嘩の実践経験豊富なヤクザ者の方が強いなどと、謗りを受けるはめに陥りました。それが本当かどうかは、はなはだ疑問ですが、「中て」たら生命にかかわることですから、これを禁止しなければ「殺し合い」になり、空手の本意から外れることになります。ベニー・ユキーデ選手の言い分が正しいかどうかは、高速で顔面を突きにくる、日本空手協会のトップ選手の前に立ってみれば解ります。顔面に突きが当たると「反則」ではなく「無防備注意」になる場合がありましたからね。その日本空手協会ですら、事情があって松濤館流や松濤會本部、国際松濤館等に分裂しました。

 それと比較すると、指導員のボランティア制を採用している、伝統派空手の糸東流、和道流、剛柔流系は比較的分裂が少ない印象です。一部のプロフェッショナル指導員(本部の職員)を除いて、道場は公立学校等の体育館を借用して、指導者はボランティアの有段者という形式だと、分裂する意義は少なくなります。