「狩人の夜」
(原題:The Night of the Hunter)
1955年8月26日公開。
1990年3月21日日本公開。
ある狂信者に命をつけ狙われる幼い兄妹の恐怖を描くサスペンス映画。
ロバート・ミッチャム主演の異色作。
脚本:ジェームズ・エイジー
監督:チャールズ・ロートン
キャスト:
- ロバート・ミッチャム:ハリー・パウエル
- シェリー・ウィンターズ:ウィラ・ハーパー
- リリアン・ギッシュ:レイチェル・クーパー
- ジェームス・グリーソン:バーディ・ステップトウ
- イヴリン・ヴァーデン:アイシー・スプーン
- ピーター・グレイブス:ベン・ハーパー
- ドン・ベドー:ウォルト・スプーン
- ビリー・チャピン:ジョン・ハーパー
- サリー・ジェーン・ブルース:パール・ハーパー
- グロリア・カスティロ:ルビー
あらすじ:
銀行に押し入り、2人を殺害して1万ドルを奪ったベン(ピーター・グレイヴス)は、娘パール(サリー・ジェーン・ブルース)の人形の中に金を隠し、息子ジョン(ビリー・チャピン)に金のありかを口外するな、と言い残して警察に連行される。
やがて彼は死刑になるが、刑務所でこれをかぎつけたハリー(ロバート・ミッチャム)は福音伝道師になりすまし、ベンの妻ウィラ(シェリー・ウインターズ)に接近する。
そして2人は結婚するが、ある夜ハリーは子供たちに金のありかを問いつめているのをウィラに目撃され、彼女を殺す。
子供たちはハリーへの恐怖から河ヘボートを出し逃亡の旅に出て、いつしか身寄りのない子供たちを世話している未亡人ミス・クーバー(リリアン・ギッシュ)の厄介になる。
そしてハリーも子供たちの居場所をつきとめるが、彼は子供たちを守る彼女に警察に通報され、連行されてゆく。
その時、ジョンの心は、父とハリーが重なって見えるのだった。
コメント:
1953年に発表されたディヴィス・グラッブによる同名の小説が原作である。
グラップの小説は出版されると同時にベストセラーとなり、1955年度の全米図書賞の最終候補にも選ばれた。
小説の大ヒットを受けて、当時優れた舞台・映画俳優として知られていたチャールズ・ロートンによる映画製作が開始された。
映画の脚本執筆は、当時最も影響力のある映画評論家であったジェームズ・エイジーが担当することになった。しかし当時のエイジーは重度のアルコール依存症に苦しめられており、彼が執筆した草稿は量が多すぎてそのままでは殆ど使い物にならなかったという。そのため監督であるロートンが脚本を大幅に手直しすることで映画の撮影が開始された。脚本の完成まで若干手間取ったものの、映画の撮影自体は僅か36日という短期間で終了したという。
映画は1955年8月26日に北米で公開されたが、興行的にも批評的にも失敗した。
作品が受け入れられなかった理由について、同年に『暴力教室』や『理由なき反抗』のような話題作が有ったためそれらに埋もれてしまったとも、シネマスコープで撮影されたカラー映画が増えつつある中、スタンダード・サイズで撮影された白黒映画が観客に古臭く見えたとも言われている。
ロートンはこの結果に失望して、再び監督をする意欲を無くしてしまった。
結果的にこの作品が名優ロートンにとって最初で最後の監督作品となった。
しかし、公開後しばらく経ってから作品の芸術的価値が再発見され、現在ではカルト映画としての地位を確立している。
映画が製作された1950年代には本国アメリカにおける不評のためか日本では劇場公開されなかったが、近年の再評価を受けて1990年になってようやく日本でも劇場公開されるに至った
公開当時は、本国アメリカでは興行的にも批評的にも苦戦した。
だが、フランソワ・トリュフォーを初めとするヌーヴェル・ヴァーグの映画製作者たちからは賞賛された。
作品中の ドイツ表現主義を髣髴とさせる映像は、当時のハリウッド製フィルム・ノワールの画一的なリアリズムとは一線を画するものだった。
幻想的な映像を写し撮ったスタンリー・コルテス、甘美なBGMを作曲したウォルター・シューマンの両人が果たした功績は、現在高く評価されている。
アメリカでも何度もTV放送されるうちに、徐々に『狩人の夜』の評価が高まってきた。
例えば、ホラー作家のスティーヴン・キングはこの映画を自選の名作映画100選の1本として挙げ、影響を受けたことを告白している。キングは映画の原作者であるグラッブの没後に、最大級の賛辞を寄せている。
映画評論家のロジャー・イーバートは、アメリカ映画の中で最高の作品の一つであると絶賛した。
また、作品そのものの芸術的価値の他に、『狩人の夜』が後続の映画に与えた影響も無視できない。
その中でもロバート・ミッチャムが演じたハリー・パウエルのキャラクター設定、特に彼の両手の指に刻まれた「L-O-V-E」と「H-A-T-E」の刺青は、その後多くの作品で模倣されることになった。
例えば、同じくミッチャムが犯人のマックス・ケイディ役を演じた『恐怖の岬』(1962年)でも、ミッチャムは「JUSTICE」「TRUTH」という文字が左右に入った十字架の刺青を背負っている。
ロバート・ミッチャムは、眠たそうな瞳を擁した顔立ちに加え、がっしりとした体格を武器に戦後のスクリーンを賑わせたタフガイ俳優としてお馴染みで、スリーピング・アイという異名をとった。
この人は、スコットランド=アイルランド系の父親とノルウェー系の母親の間に、コネチカット州にて生まれた。
南カリフォルニアにあるロッキード社の飛行機工場に就職。
その頃、地元のアマチュア劇団に遭遇し、俳優としてのキャリアをスタートさせる。
劇団で演技の経験を積み、クラブの歌手だった姉のマネージャーの紹介で映画界入りして、1942年には映画『Border Patrol』でボブ・ミッチャムの名で映画デビュー。
1944年にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の『東京上空三十秒』に端役として出演して以来、RKO社の目に留まって専属契約を結び、本格的な主演級の俳優として注目される。
翌年、従軍記者アーニー・パイル原作の『G・I・ジョー』ではアカデミー助演男優賞にノミネート。
1945年には徴兵されるが、終戦のため兵役期間は数ヶ月で終了。
映画界に復帰し、1947年の『過去を逃れて』では悪女に翻弄される私立探偵を演じる。
これにより無表情でクールなタフ・ガイとしてのイメージを築き上げ、その後も、ニューロティック映画の要素を取り入れた異色ウェスタン『追跡』、ユダヤ人差別問題にメスを入れた問題作『十字砲火』などの話題作に出演して頭角を現す。
しかし、1948年にマリファナ所持の容疑で逮捕、43日間(2月16日から5月30日まで)監獄農場に勾留されたが、結果冤罪である事が証明された。
ハワード・ヒューズの側近によるスターの移籍阻止をめぐる体制側による捏造だった事が後年判明した。
この事件より逆にバッド・ボーイのイメージで売れ出し、さらに1950年代前半はこうした逆境をさらに跳ね除けるようにスターダムにトップスターに登りつめ、マリリン・モンローと共演した『帰らざる河』、ジャック・パランスと東西のタフガイ男優共演となった『第2の機会』などの大ヒットで地位を確立した。
尼僧と共に日本軍占領下の島に取り残された米兵を演じた『白い砂』、クルト・ユルゲンス率いるドイツ軍Uボートと頭脳戦を繰り広げる駆逐艦の艦長を演じた『眼下の敵』などこれまでのイメージのタフガイを演じた一方、50年代後半から1960年代にかけては一転して犯罪者役や悪役にも挑戦、『狩人の夜』のエセ伝道師役や『恐怖の岬』の犯罪者マックス・ケイティ役などを務めた。
後者は後にロバート・デ・ニーロ主演によって『ケープ・フィアー』としてリメイクされたが、ミッチャムはオリジナルの主演だったグレゴリー・ペックと共に脇役として出演している。
一方、西部劇では『エル・ドラド』でジョン・ウェインと共演したが、このときの役は女性関係で傷つきアルコール使用障害になった保安官であった。
この作品ではジョン・ウェインとの息のあったコミカルな演技を見せている。
若い頃から趣味で歌の作詞をしていたが、1958年の低予算探偵映画『Thunder Road』では製作、主演、脚本を手掛けただけでなく、主題歌「Whippoorwill」を作詞してヒットさせた。
先の『エル・ドラド』ではピアノ弾き語りも撮影されたが公開版では削除された。他には『芝生は緑』、『史上最大の作戦』などに出演。
1970年代は大作『ライアンの娘』で難役を演じ、演技派として転向。
1975年には日本を舞台に『ザ・ヤクザ』で高倉健と共演、来日時にインタビューした南部圭之助は、バッドボーイのイメージは皆無な紳士であったと、著書で証言している。
またレイモンド・チャンドラー原作の『さらば愛しき女よ』では、私立探偵フィリップ・マーロウをハンフリー・ボガートとは一味違った年老いたキャラクターで演じて、映画もヒットした。
1980年代に入ってからは、TVドラマにおいてもハードボイルド系の作品で探偵役、マフィアものの作品での不気味なドンなど、性格俳優としても開眼。老いてますますキャリアを広げていった。
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