アヌーク・エーメの映画 「モンパルナスの灯」 画家・モジリアニの愛妻を熱演! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「モンパルナスの灯」

(原題:Les amants de Montparnasse

 

モンパルナスの灯」 : 寄り道カフェ

 

「モンパルナスの灯」 予告編

 

1958年9月30日公開。

悲運の画家・モジリアニの苦悩の生涯を映画化。

アヌーク・エーメが愛妻を熱演。

 

監督・脚本:ジャック・ベッケル

 

キャスト:

  • モジリアニ:ジェラール・フィリップ
  • ジャンヌ・エビュテルヌ:アヌーク・エーメ
  • 画商ズボロフスキー:ジェラール・セティ
  • ズボロフスキー夫人:リラ・ケドローヴァ
  • ベアトリス:リリー・パルマー
  • 画商モレル:リノ・ヴァンチュラ
  • ロザリー:レア・パドヴァーニ

和泉萌香 on Twitter: "“モンパルナスの灯”  ジェラール・フィリップが悲運の画家モディリアーニを、アヌーク・エーメが彼の永遠の恋人にして妻ジャンヌを演じる。病苦と貧困に悩まされ絶望で彷徨う画家の姿と寒々しい風に鈴の音の演出、死が作品を蝕み芸術を買い尽くして  ...

 

あらすじ:

一九一〇年代のモンパルナス。

貧窮の身を酒にまぎらせるモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の、孤独と病苦にさいなまれた姿がそこにはあった。

かつて恋人だったロザリー(レア・パドヴァーニ)の酒場で酒をあおり、虚無的な心のいらだちをベアトリス(リリー・パルマー)の部屋で、荒々しい動作に示し、巷をさまよい歩く彼を、愛し力づけてくれるのは、同じアパートに住む画商スボロウスキー(ジェラール・セティ)だった。

子供のように純な才能をもつ画家“モジ”の心を、同じ苦しい生活をしながらもスボロウスキーは認めていた。

そうしたある日、モジリアニに新しい恋がめばえた。

相手は画塾の生徒で、清純なジャンヌ・エビュテルヌ(アヌーク・エーメ)という若い女性だった。

二人の心は結ばれ、彼女は家族を捨ててモジリアニのもとにくることを誓った。

しかし、官吏の父はそれを許してくれはしなかった。

傷心のモジリアニは、再び酒におぼれる。

極度の健康悪化におちいった身を、ロザリーの店のベッドに横たえるモジリアニを、スボロウスキーは南仏のニースに転地させた。

輝く太陽と青い海のあるニース。

そして、恋しいジャンヌの突然の出現。

小康を得たモジリアニの、愛の生活と、平和な制作活動がはじまった。

しかし、そのつかの間の日々の後にはまた、パリでの苦難の生活が待っていた。

女パトロン、ベルト・ウェイルとスボロウスキーの尽力で開かれた個展の不評。

彼の絵を商業ポスターの図案に使おうとしたアメリカの富豪。

仕事に対する自信を失い、空腹と絶望にさいなまれたモジリアニは、妻との生活の糧を得るために、デッサンをもって街の酒場をさまよい歩いた末、警察病院で行路病者として死んだ。

モジリアニの才能が、死後はじめて世に知られるであろうことを予測していた画商モレル(リノ・ヴァンチュラ)は、秘かに彼の死を見とどけると、何も知らぬジャンヌが残っている彼の部屋を訪れた。

今は遺作となったモジリアニの数々の作品を、片はしから買いとろうとするモレルを前にジャンヌの目は泪にぬれていた。

「彼はどんなに喜ぶでしょう……本当に長い間、あの人は認められなかったのですから……」と。

 

モンパルナスの灯(ザジフィルムズ)|ザジフィルムズ

 

コメント:

 

フランス人画家アメデオ・モジリアーニの伝記映画である。

監督・脚本をジャック・ベッケルが担当し、彼の代表作になった。

ジェラール・フィリップが主演でモディリアーニを演じている。

 

人物画で有名な悲劇の画家、アメデオ・モジリアーニの晩年を描いた実話ものの傑作である。
モディリアーニと同じく30代半ばで病死したジェラール・フィリップが、この翌年の自分の死を予期しているかのような渾身の名演を見せてくれる。

 

モンパルナスの灯(Les amants de Montparnasse ) | クルトの映画方丈記


ヒロインは、一般の女優とは次元の違う美しさのアヌーク・エーメ。

愛妻のジャンヌを演じている。

当時26歳になっていて、すでに立派な大人の女性であった。

堂々とした演技で、この不運な主人公と苦しみを共にする妻を熱演している。

 

白い肌と、情熱を感じさせる大きな瞳 --- アヌーク・エーメの『モンパルナスの灯』 | 映画女優のエレガンス


絵は作者が死んでから初めて価値が出るものだという、画商モレルを演じたリノ・ヴァンチュラの言葉が全てを語っている。

 

美術解説】アメデオ・モディリアーニ「近代肖像画の代表」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

 

実在した悲運の画家・アメデオ・モジリアーニ。

この人は、イタリア出身の画家、彫刻家。

主にパリで制作活動を行った。

芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。

生前にほとんど失意の毎日を送った悲運の画家の代表格の人物である。

 

1884年にトスカーナ地方の都市、リヴォルノで生を受ける。

1900年、結核に冒されるも、1902年にフィレンツェに赴き、裸体画教室に学んだ後、翌1903年にはヴェネツィアに移住し、美術学校に入学する。 

1905年の伯父の死去後、パリへ向かう。

 

アカデミー・コラロッシに入学し、モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始める。

モンマルトルの画家たちと知り合う。

この頃、パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。 

1907年末、サロン・ドートジンヌに出品するが、同所の回顧展でポール・セザンヌを知り、強い衝撃を受ける。

 

また同じ頃、医学研修生のポール・アレクサンドルの勧めで、サロン・デ・サンデパンダンに入会する。 

アレクサンドルはモジリアーニの絵画をパリで最初に購入した人物である。

アンデパンダン展には第24回展(1908年)、第26回展(1910年)、第26回展(1911年)と出品している。

しかし当時の評価は低く、ごく少数の新聞に他の作家と共に名が載った程度であり、また作品も売価を大幅に値引かないと売れない状況だった。 

彼の死後の1926年の回顧展では新聞は高く評価し、例えば肖像画は3万5千フランで売れたことが記録されている。

 

1909年、モンパルナスに移る。

ここでルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシと交流する。

また、この時期に彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていた。 

資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、途中で断念せざるを得なかったが、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができる。

 

1914年、パリでも著名な画商であったポール・ギヨームと知り合い、ギヨーム本人や友人のマックス・ジャコブの勧めもあって、1915年頃から絵画に専念し、画業を始める。 

当時シャイム・スーティン、藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友関係にあった。

 1914年7月、英国人女性のベアトリス・ヘイスティングスと知り合い、2年間交際する。 

同じ頃、第一次世界大戦が勃発し、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となった一方、長く親交のあったポール・アレクサンドルは召集されてしまい、その後は出会うことはなくなる。 

1916年には、ポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに、画材などを提供してもらっている。

また、同年、シモーヌ・ティローを愛人とするが、翌年別れる。

 

1917年3月、アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始める。 

12月、生前唯一となる個展を開催したが、警察を巻き込む騒動となる。

 1918年、転地療養のためニースに滞在する。

同年11月29日、母親と同じ名前である長女ジャンヌが誕生。 

1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。

しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、結核性髄膜炎により死亡した。35歳没。 

妻ジャンヌもモジリアーニの死の翌日、後を追って自宅のあるアパルトマンから飛び降り自殺した。

この時、妊娠8ヶ月だったという。 

ジャンヌの遺族の反対もあり、2人の遺骸は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されたという。

 

モディリアーニが描く女性像 | アート名画館 公式ブログ

 

不幸な人生を送ったモジリアーニだったが、死後ようやく彼の絵画は世界で認められ、現在、フランス、米国、日本など多くの国で一流美術館に展示されている。

 

原題の「Les amants de Montparnasse」とは、「モンパルナスの恋人たち」という意味である。
 

タイトルにもある「モンパルナス」。

これは、フランスの首都パリ南部のセーヌ川左岸にある地区(カルチエ)の名前である。

ロダンのバルザック像が立つ、ラスパイユ通りとモンパルナス通りの交差点。

ここを中心とする国鉄モンパルナス駅、モンパルナス墓地(1824年開設)付近一帯の市街地だ。

 

ロダン作のバルザック像 - Monument à Balzac par Rodinの口コミ - トリップアドバイザー

 

 

Montparnasse

 

モンパルナス - Wikipedia

(夜のカフェ・ドーム)

 

名称は、1760年のモンパルナス通り(命名は19世紀)開通以前この地にあったパルナッソスの丘にちなむ。

20世紀初頭以降モンマルトルに次いで前衛芸術家や亡命者たちの多く集まる地区となり、彼らの通ったカフェ「ドーム」や「クーポル」にはいまも観光客が訪れる。

藤田嗣治(つぐはる)のようにこの街に住み、この街を描いた画家も多い。

ババン街、ブレア街、ドゥランブル街など「夜の箱」とよばれる歓楽街もある。

 

モンパルナス墓地には、ポアンカレ、ボードレール、モーパッサン、サン・サーンス、セザール・フランクなど文人、音楽家の墓がある。

 

パリの静かな墓地に眠る芸術家たちに会いに – まっぷるトラベルガイド

(モンパルナス墓地にあるショパンの墓)

 

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