ハリウッド・コメディ映画 第18位「キートンの大列車追跡」世界の三大喜劇王バスター・キートン! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「キートンの大列車追跡」

(原題: The General)

 

The General (1926) - IMDb

 

「キートンの大列車追跡」 全編(英語字幕付き)

 

1926年12月31日公開。

南北戦争のアメリカで、機関車と恋人をさらわれた機関士が孤軍奮闘の様子を描くアクション・コメディ。

世界の三大喜劇王の一人・バスター・キートンの代表作。

 

脚本:アル・ボースバーグ、チャールズ・スミス

監督:クライド・ブルックマン、バスター・キートン

 

キャスト:

  • ジョニー・グレイ…バスター・キートン
  • アナベル・リー…マリオン・マック
  • アンダーソン大尉…グレン・キャベンダー
  • サッチャー将軍…ジム・ファーリー
  • 南軍の将軍…フレデリック・ブルーム
  • アナベルの父…チャールズ・スミス
  • アナベルの兄…フランク・バーンズ
  • 北軍の将軍…ジョー・キートン、マイク・ドンリン、トム・ナウン

The General | Rotten Tomatoes

 

あらすじ:

ジョニー・グレイ(バスター・キートン)には愛するものが2つあった。

それは彼が操縦する機関車「将軍」号と恋人アナベル・リー(マリオン・マック)だった。

南北戦争たけなわのある日、北軍スパイ一行が、たまたま貨物車に乗っていたアナベルともども「将軍」号を奪い逃走した。

アナベルが貨物車に乗っていたことを知らないジョニーは、ただ「将軍」号奪回のために、機関車「テキサス」号でスパイ一行を追う。

途中、頼りになる南軍の軍隊を列車に乗せたが、機関車と軍隊を乗せた貨車の連結が離れていたためジョニー1人だけになってしまった。

線路上は追いつ追われつの攻防戦が展開された。

夢中で「将軍」号を追いかけるあまり、気付けばそこは北軍の真っただ中だった。

あわててその場を逃げるジョニーだったが、どしゃぶりの雨を避けて逃げ込んだ一軒家が、なんと北軍司令部だったのだ。

進退窮したジョニーはテーブルの下に隠れ、すっかり作戦会議を聞いてしまった。

その上、愛するアナベルがこの家に拉致されているのを知り、早速助け出した。

翌朝、「将軍」号に物資が運びこまれているのを発見したジョニーは北軍兵になりすまし、麻袋に入れたアナベルを物資に見立てて運び込むと、まんまと「将軍」号を発車させた。

それを知った北軍は、今度は逆に「テキサス」号で「将軍」号を追跡する。

ジョニーとアナベルは協力しあい、あの手この手で何とか北軍を振り切って、南軍駐屯地に到着する。

ジョニーの報告を受けた南軍はただちに敵の集結地点に出発した。

もちろんジョニーも参加し、数々の珍妙な功績を上げた。

その中でも、角材で殴って気絶させた将校が、北軍の将軍だったことから、晴れて少尉となったジョニーはアナベルと幸せに抱き合うのだった。

 

The General (1926) | film freedonia

 

コメント:

 

別邦題に『キートン将軍』『キートンの大列車強盗』がある。

南北戦争中に起こった事件「グレイト・ロコモーティヴ・チェイス(アンドリュース攻撃)」を元にした、ウィリアム・ピッテンガーの小説を原作とした映画で、監督はクライド・ブルックマンとバスター・キートンである。

 

The General

 

バスター・キートン(英: Buster Keaton, 1895年10月4日 - 1966年2月1日)は、アメリカ合衆国の喜劇俳優、映画監督、脚本家。

チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと並び「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。

 

バスター・キートン写真集 Buster Keaton Remembered - 洋書

 

カンザス州ピクアにて、父ジョー・キートンに、母マイラ・キートンとの間にジョセフ・フランク・キートン(Joseph Frank Keaton)として生まれた。

両親とも舞台芸人で、キートンも1899年にまだ4歳の頃、親子による「キートン3人組 (The Three Keatons) 」として初舞台に立ち、各地でヴォードヴィルの巡業を続けた。

父が、小さい彼の身体を逆さに持ち上げてぶんぶん振り回す「人間モップ」という、荒っぽいギャグを売り物とし、泣き顔一つせず演じていた事は有名な話である。

後に弟ハリー(愛称はジングルズ)と妹ルイーズを加えた5人組としても人気を博したが、後にまたバスターと両親の3人組に戻っている。

イギリスなどでの海外巡業も経験した。

キートンが映画界に進出する直前まで活動が続き、その時点で解散している。

 

芸名の由来についてはこの家族舞台時代、突風に飛ばされたにも係わらず(自伝でキートンは「階段から転落説」を語っている)、全く泣かなかったのを見た、高名な手品師のハリー・フーディーニに「My,What a Buster!(おやおや、なんて頑丈なんだ!)」と言われた処から、すぐそばにいた父によって「バスター・キートン」の名が誕生したといわれる。

 

多数の映画に出演し、家族で共演する作品もいくつか存在する。

『デブ君の勇士』 (A Country Hero) では息子との初共演を果たしているが、フィルムは現存していない。

 

1917年にニューヨークへ渡り、当時マック・セネットのキーストン・スタジオで大人気を得、自らのプロダクションを設立したロスコー・アーバックルの誘いを受けて映画界入りを果たした。

映画初出演作品は『ファッティとキートンのおかしな肉屋』 (The Butcher Boy)だが、キートンが新人ながら決して短くない出演時間を、1度も撮り直しせず撮影を終えた。その後アーバックル主演映画に、立て続けに脇役として出演した。

 

1918年には第一次世界大戦による徴兵で、一時映画出演から離れた。

体を張りながらも無表情で一途な役柄を特徴としたことから、「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」、他に「死人の無表情」「すっぱい顔」「凍り付いた顔」「悲劇的なマスク」などと呼ばれた。

アーバックル主演映画に出演していた頃、このキャラクターは定まっておらず、笑顔や泣き顔、更には激怒した顔など、豊かな表情を見受けることができる。

無表情が定着したのは独立後で、チャップリンの撮影施設を買い取り、キートン撮影所を設立した時期と重なる。

1920年長編『馬鹿息子』(The Saphead)に主演する。

 

1923年まで18本の短編を撮影後、1923年から1928年までは自らの撮影所で、第1作『キートンの恋愛三代記』 (The Three Ages) から10作目である『キートンの蒸気船』 (Steamboat Bill Jr.) まで、長編作品10本を製作した。

これらはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下MGM)やユナイテッド・アーティスツにより配給された。

『キートンの探偵学入門』 (Sherlock, Jr.) では危険なシーンの撮影のおり、給水塔の水で叩きつけられて汽車の上からレールに転落。首の骨を折ったにもかかわらず、気がつかずに撮影続行。一年半後偶然に骨折の痕が見つかったが、その時には既に完治していたという武勇伝が残されている。

本人は「頭痛が続く」しか自覚がなかったという。

1928年には自身の撮影所を手放し、当時すでに多くのスターを抱え込む大手映画製作会社、MGMと契約した。

だがキートンは次第に、MGMでの映画製作システムに対応できなくなってしまう。

移籍後は主演作品でも脚本を書くことはおろか、監督を務めることさえ激減したため、単なる間抜けな主人公によるコメディ作品というイメージが強くなった。

後にキートンが自伝でも過ちとして語っているように、MGMでの時代は転機を迎えた時期だといえる。

それでも興行的には成功を収めている作品も存在し、特に1928年に公開された『キートンのカメラマン』 (The Cameraman) は、その年のMGM作品でも抜群の興行成績を記録した。

 

初単独監督作品は1920年に撮影された『キートンのハイ・サイン』 (The High Sign) であるが、キートン本人が気に入らず公開が見送られた。

同年、監督作品である『文化生活一週間(キートンのマイホーム)』(One Week) が公開されている。

その後『キートンの電気館』 (The Electric House) の撮影中、キートンはエスカレーターに足を挿まれ骨折し、撮影中止の事態に陥ってしまった際、埋め合わせとして『ハイ・サイン』が公開された。

『電気館』は再度の撮影の後、1922年に公開されている。こうして1920年代を中心に、大人気の映画俳優となった。

 

1933年までMGMで映画を撮り続けたが、徐々に仕事は衰退した。

衰退の原因が今日では、サイレント映画の衰退、および代わりに台頭するようになったトーキー技術において、キートンのハスキーボイスがそれとマッチしないと評されるところが多い。

初トーキー作品は 1930年の『キートンのエキストラ』だが、この作品は、興行的に大成功を収めており、ヴォードヴィル時代に鍛え上げられた、ダンスと歌声を披露しているほどである。

朗々たる美声とは言いがたいが、洒落た感じのよい歌声であり、決して悪声ではない。

他に衰退の原因として考えられている点が、MGMの分業方式・スター方式が合わず、さらに今まで一緒だったチームメンバーが解体してしまった事などである。

サイレント時代の傑作『キートン将軍』などのカメラワークは、今見ても目を見張るものがあるが、これらのスタッフは各スター作品の製作で文字通り引っ張りだこであって、複数の喜劇映画に名を連ねている。

1931年の『紐育の歩道』はキートンの商業的に最も成功した映画だった(興行収入 885,000ドル、純利益は約 200,000ドル)。

MGM時代後期は、ジミー・デュランテとのダブル主演となっていった。この頃から酒に溺れる日々が続き、撮影を丸1日潰してしまう出来事も起こった。

またMGMとの約束をキャンセルしてしまう出来事も重なり、これがきっかけで解雇されてしまう。

1930年代半ばには、エデュケーショナルで短編作品に出演・主演するようになった。1935年の『恥ずかしがり屋の青年』(別邦題『内気な青年』)ではマック・セネット監督、キートン主演の最初で最後のコンビが実現した。

また1940年代にはコロンビアやユニヴァーサルにも迎え入れられたが、主に脇役であった。

一方で外国で長編作品の製作に携わった(『キートンの爆弾成金』(フランス、1934年)、『キートンのスペイン嬌乱』(イギリス、1935年)、『キートンの月ロケット』。

他にも監督、原案の提供、ギャグの創作や指導などの仕事をこなす。

マルクス兄弟の作品にも原案提供・ギャグ指導を行っており(兄弟の反応は微妙なものだったという)、このためマルクス兄弟の特徴となる視覚的で不条理なギャグには、キートンの影響が随所に見られる。

とは言え当時は既にハリウッドの一線から退いたと考えられていた。

酒量が増えアルコール使用障害に陥り、破産も経験している。

これに前後して『荒武者キートン』で共演した妻との離婚、看護婦であった第2夫人との結婚・離婚などを経験し、「発狂」と新聞に報道されてしまう羽目にまで立ち至っている。

これは日本の新聞にも写真つきで報道され、古い映画評論などはいまだにそのまま書かれている。

 

1950年代に入ると、TVショーの出演やヨーロッパでの舞台を続けるなど、仕事に恵まれた。

映画でも1950年にビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』に出演。

1952年に『ライムライト』に出演して、チャーリー・チャップリンと初共演を果たした。

これらの仕事や、黄金時代のフィルムが倉庫から探し出されてリバイバル上映されるなど、キートンへの再評価が高まった。

1957年には伝記映画『バスター・キートン物語』も公開された。

1959年アカデミー名誉賞を授与された。

1965年『キートンの線路工夫』では主演を務めた。

最晩年(1966年)の出演作『ローマで起こった奇妙な出来事』ではセリフも少なく、ただそのへんを走っているだけのマラソンランナー役だったが、それでもクレジットタイトルでは別格扱いだった。

1966年2月1日、肺癌によりカリフォルニア州ウッドランドヒルの自宅で死去。70歳。

 

 

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