「タタール人の砂漠」
(原題:Il deserto dei Tartari)
1976年10月29日公開。
辺境の砦でいつ来襲するともわからない敵を待ちながら、緊張と不安の中で青春を浪費する将校を描く。
原作:ディーノ・ブッツァーティ「タタール人の砂漠」
脚本:ジャン=ルイ・ベルトゥチェリ、アンドレ・G・ブルネラン
監督:ヴァレリオ・ズルリーニ
キャスト:
- ジャック・ペラン:ジョヴァンニ・ドローゴ少尉
- マックス・フォン・シドー:ホルティス大尉
- ヘルムート・グリーム :シメオン中尉
- ジュリアーノ・ジェンマ:マティス少佐
- ヴィットリオ・ガスマン:フィリモーレ大佐
- フェルナンド・レイ:ナタンソン中佐
- ジャン=ルイ・トランティニャン:ロヴィン軍医
- フィリップ・ノワレ:将軍
- フランシスコ・ラバル:トロンコ
- ローラン・テルジェフ:アーメルリング
- リラ・ブリニョーネ:ドローゴの母
あらすじ:
1907年イタリア。
士官学校を卒業したばかりの青年ドローゴの着任の日が来た。
赴任地は国境の砦バスティアーノである。
そこには、かつて猛威をふるった狂暴な騎部武族タタール人の伝説があった。
不毛な土地で姿なきタタール人の襲撃に怯える兵士たち。
苦悶と焦燥のうちに年月が無為に過ぎ去っていく。
中尉にまで昇進したドローゴだが、長期間にわたる要塞での生活は、彼の肉体と精神をむしばんでいた……。
ヨーロッパ人が抱くアジアに対する潜在的恐怖感を背景に、錯綜する心理劇が展開する。
コメント:
ディーノ・ブッツァーティの同名小説をヴァレリオ・ズルリーニが映画化した作品である。
ディーノ・ブッツァーティは、イタリアを代表する小説家。
「タタール人の砂漠」は彼の小説の中で最も有名なものだという。
タタール人の侵入を待ち構えている軍隊の駐屯地の物語である。
物語の中の心情についてもまた結末に関しても、実存主義者の作品、特にアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」と比較されている。
タタール人とは何か。
タタール(Tatar, タタール語: татарлар)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したテュルク系民族に対して用いられてきた民族総称である。
日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。
タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である。
この語はテュルク語で「他の人々」を意味するとされ、その最古の使用例は突厥文字で記した碑文(突厥碑文)においてであった。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史』や『遼史』において「達靼」「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるといい、タタルを自称とする部族が形成されていた。
後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属してモンゴル帝国の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。
ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が「タルタル (Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。
中でもロシア語の「タタール(Татар)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго)」という苦い歴史として認識されている。
東ヨーロッパではモンゴル帝国の崩壊後にロシアの周縁で継承政権を形成したムスリム(イスラム教徒)の諸集団をタタールと称した。
彼らの起源は、モンゴル帝国の地方政権のうちで後のロシア領を支配したジョチ・ウルスにおいてイスラム教を受容しテュルク化したモンゴル人と彼らに同化した土着のテュルク系、フィン・ウゴル系諸民族などで、これが現在のロシア・東ヨーロッパのタタール民族に繋がっている。
このあたりの歴史が日本ではほどんど理解されていないので、「タタール人の砂漠」などという小説や映画のことを聞いても全く興味が沸かないだろう。
最も最近のニュースで話題になったロシアのウクライナ侵攻。
その中で争いの地のひとつであるクリミア半島。
これぞ、タタール人の国だった。
クリミア半島は南ロシア平原から、黒海につきだした三角形の半島。
紀元前8世紀には、騎馬遊牧民のスキタイが活動し、次いでギリシア系のボスポロス王国が成立した。
ローマ帝国の支配もこの地におよんだが、ゲルマン民族移動期にゴート族が入り、さらにフン人の移動の後、6~10世紀にはハザール=カガン国という遊牧国家がこの付近一帯を支配した。
13世紀中ごろにモンゴル人が大遠征を行ってこの地方に侵入し、キプチャク=ハン国が建てられ、その領土となった。14世紀ごろからキプチャク=ハン国が弱体化する中で、15世紀にいくつかの地方政権が成立した。
キプチャク=ハン国が分解する中で、クリミア半島にはクリミア=タタール人がクリム=ハン国を成立させた。キプチャク=ハン国はイスラーム化していたので、クリム=ハン国もイスラーム教を継承し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下に入り、その宗主権のもとにあった。
一方、ロシアはかつてのタタールのくびきから脱してロシア人国家を成立させ、ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩み始め、アジア系民族の支配する黒海北岸のウクライナを解放し、さらに黒海方面に進出することを悲願としていた。
17世紀にピョートル1世のもとで南下政策を進め、1696年には黒海の北につながるアゾフを占領した。
さらに、エカチェリーナ2世は1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦した。
これを第1次ロシア=トルコ戦争といい、ロシアは陸上と海上でオスマン帝国軍を破り、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約で講和し、それによってクリム=ハン国の保護権を獲得した。
しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンをカリフとして認め、それに従う姿勢を崩さなかった。
そこでロシアのエカチェリーナ2世は将軍ポチョムキンを派遣して、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。
そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国に逃れ、その保護を求めた。
オスマン帝国はクリミア半島及び黒海北岸からのロシア軍の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して1787年、ロシア=トルコ戦争が再開された。これを第2次ロシア=トルコ戦争という。
この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し、オーストリアがロシアを支持するという、東方問題という国際問題へと転化した。
ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イズマイル要塞を陥れ、イスタンブル(ロシア側はコンスタンチノープルと称した)に迫った。イギリスとスウェーデンが戦争から手を引いたため、孤立したオスマン帝国は1792年、講和に応じた。
このヤッシーの和約で、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認め、ドニエストル川とブグ川の間を割譲した。
19世紀に入るとギリシアの独立や、エジプト=トルコ戦争など、オスマン帝国の弱体化が明らかになり、ヨーロッパ列強の眼が東方に注がれるようになった。
それが東方問題といわれる不安定要素となった。
ついにロシアのニコライ1世は、1853年に一気にイスタンブルから地中海方面への突破を狙い、オスマン帝国に宣戦し、クリミア戦争が勃発した。
それを阻止するため、イギリス・フランス、さらにサルデーニャ王国が参加しオスマン帝国を支援、ロシア軍のセヴァストーポリ要塞に総攻撃をかけた。
戦争は激戦となったが、装備の近代化が遅れていたロシア軍が敗北、1856年、パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。
この条約でオスマン帝国の領土が保全されると共に、ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認され、その他ロシアの後退措置が執られてその南下の勢いはくじかれた。
イタリアとタタール人との戦闘はあったのだろうか。
文献によると、神聖ローマ帝国時代に、その領土内にモンゴル人部隊が侵攻したことは何度もあったようだ。
モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻は、1241年春と1241年-1242年の冬に行われた。
これらは、モンゴル軍による最初のヨーロッパへの大規模な侵攻の一部であった。
モンゴル軍は神聖ローマ帝国の領土奥深くには進まず、この方面では大規模な武力衝突も生じなかった。
一方、ポーランドに侵攻した軍団はドイツ東部に進出した後、1241年4月から5月にかけてモラヴィア辺境伯領を越えて、ハンガリーに侵攻した軍と合流した。
その際、モンゴル軍はモラヴィア地方を蹂躙したが、軍事的要衝への攻撃は避けている。
ボヘミア王ヴァーツラフ1世はドイツの諸侯と合流したが、戦闘を避けてモラヴィアでモンゴル軍の動向を監視した。
1カ月後には、オーストリア公国の北部で数百人の死者を出す大規模な衝突があったが、オーストリア人とハンガリー人が協力してモンゴル軍に対抗するには至らなかった。
モンゴル軍の脅威に対応するため、帝国教会と帝国諸侯(フュルスト)は会議を開いた。
教皇グレゴリウス9世は十字軍の説法を命じ、イタリアからは皇帝フリードリヒ2世がそのための回勅を出した。ドイツ王コンラート4世の指揮する十字軍は1241年7月1日に招集されたが、出発して数週間後にはモンゴル軍侵攻の危機が去ったとして解散してしまった。
神聖ローマ帝国内ではモンゴル軍との大規模な軍事衝突は起こらなかったが、神聖ローマ帝国がモンゴル軍を牽制したという噂は、帝国の国境を越えて広がっていった。
スペインからアルメニアまで、ボヘミアやドイツの王がモンゴル軍を倒して退却させたという記録がいくつかの言語で残されている。
モラヴィアでは、モンゴル軍に勝利したとされる記録が伝説となった。
ドイツでは、モンゴル軍がヨーロッパから撤退したのは、十字軍の軍事行動のおかげだとする作家もいた。
実際には、モンゴル軍はキプチャク人(クマン人)を受け容れたハンガリー王を討伐することを第一の目的としていたため、神聖ローマ領の大部分はモンゴル軍の攻撃を免れたと考えられる。
モンゴルは1241年12月と1242年1月にオーストリア東部とモラヴィア南部を再び襲撃した。
100年後の1340年にはブランデンブルク辺境伯領を襲撃した。
この2回の襲撃の間にも、1351年になっても、帝国内では何度も反モンゴル十字軍が説かれた。
この映画は、ズルリーニ監督にとって遺作となった作品である。
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の作品賞・監督賞・助演男優賞(ジュリアーノ・ジェンマ)、ナストロ・ダルジェント最優秀作品監督賞を受賞した。
監督をつとめたヴァレリオ・ズルリーニと、主役であるジャック・ペランは、小説に忠実である。
彼らは、前世紀の最も抽象的で比喩的で、また憂鬱な文学の傑作のひとつをスクリーンにもたらすことに成功した。
ペリンは若い将校ドロゴ役を熱演している。
かつては誇り高く勇敢で大きな期待に満ちていた主人公は、重荷の下で謙虚になり、容赦なく過ぎた年月が、彼を人間的に破滅させた。
この荒涼とした風景の中で、この無限の空間の中で、人間は砂の一粒一粒のように数えられているわけではない。
砂漠、山々、そして古代の謎が含まれているように見えるこの奇妙な放棄された都市の壮大なショット、これらすべてがひどく対照的だ。
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