シンガポール ~ NHKのど自慢  in 2003 全編 | 私の回想録 

私の回想録 

レミニセンス - 回想録。
過去の記憶を呼び返しながら、
備忘録として残したい。
記事が長いが何とぞご容赦ください。

2003年11月、サンテック・シンガポール国際会議場。NHKのど自慢シンガポール大会が開催された。観客3千人。日本へ全国実況生放送、そしてNHKワールドプレミアムで全世界に配信。あろうことか、私はそれに出場した。

 

シンガポールにNHKのど自慢が来るということは半年も前から住民の間で話題になっていた。ひと月も住んでいれば退屈してしまう狭いシンガポールであるので、徐々にお祭り騒ぎになっていった。

ある時、同業者の現地法人の代表の皆さんと食事をした時、オーチャード通りのカラオケに行くことになった。そこで私が細川たかしの望郷じょんがらを歌ったところ、嫌がる私を無視して、私をのど自慢に出場させるプロジェクトが立ち上がった。

やると決まったからは、しっかりやろうということで、7月だったか書類選考に申し込む。大事な選考基準であるプロフィールには、「単身赴任代表。娘の剣道着を着て歌います。」「希望曲は氷川きよしの白雲の城。」と書いて送った。

700人以上の応募者があり、書類選考の結果、250組が本番前々日の予選に進むことになる。

私は書類審査を通過した。

白雲の城は氷川きよし君の新曲で、氷川君は当日のゲスト。もう一人のゲストは藤あや子さん。ゲストの歌を歌う出場者は何組か優先されて選ばれるという情報も入っていたので、有利に運んだのかもしれない。白雲の城は、三橋美智也先生の古城に雰囲気がよく似ており、氷川君の歌としては重く、古典演歌への挑戦と言える。

娘は中学校時代剣道部所属。胴着は上下白で、袴は裾上げしていたので、私の背にあうようおろしてもらった。履物は義父の草履を借りることとした。
予選会でも観てもらおうと気楽に思い、私の母と妻を大会に合わせてシンガポールに呼んだ。


予選会は金曜の午後1時から。日曜に行われる本番と同じ会場でバンド演奏付で行われる。基本原曲キーで歌い、エコー効果はない。

昼過ぎから始まった予選であるが、私の番は18時くらいと遅かった。すでに剣道着に着かえ、臨戦態勢。観客席では他の出場者と談笑しながら順番を待つ。プロのように歌が上手い出場者も何組かいた。いや多分プロの歌手だと思われる。

私の応援団(調整自由な社長たち)も観客席で私の順番を待っている。

私の前の順番の方は、のど自慢では必須のご老人。はぐれコキリコをお歌いになるという。後ろの順番の方は若くてきれいなシンガポール女性で、Misiaの眠れぬ夜は君のせいを歌うという。

さて、私の順番。緊張することなく白雲の城を朗々と歌った。声もよく出ていたと思う。審査員から2-3質問を受けたが内容は覚えていない。応援団の評価も高かった。しかしのど自慢の審査基準として派手さ(目立つこと)があるので、振りをつけない私としては、まあ予選まで行って、気持ちよく歌えたのでこれで終了と思っていた。
後のシンガポール歌姫。綺麗な声で上手にMisiaの難しい曲を歌った。

全員が歌い終わり、審査のためしばしの休憩となる。私の応援団は常連の京都おばんざい料理の店、つばき庵で結果を待つということで、携帯電話で実況中継することになった。

本番出場者発表の時が来た。


私の番号はかなり後の方。本番に進むのは25組。読み上げられる番号は最初からかなり大きく飛んでいる。

近くなって突然私の1つ前の番号。コキリコのご老人の番号が呼ばれた。そして...いったー!(いってしまった)私の番号が続けて呼ばれた。さらに続けて歌姫の番号が連続で呼ばれた。携帯電話は応援団につなげっぱなしであったので、予選通過、本番出場はそのまま伝わり、現場は大盛り上がりになったらしい。

残念なことに一組失格となった。沖縄料理店のバンドで、とても良かったのだが、店の都合で合格発表の時に全員そろってなかったという理由である。NHKらしい融通の利かないルールで気の毒であった。

今日はこれでひとまず帰れると思ったのだが大間違いであった。


これから音合わせを行うという。つまり本番出場者全員がもう一回以上歌うのである。

母と妻が会場で待っていてくれたが、まだまだかかりそうなので、先に住まいに帰るようにさせた。妻はこれまで何度もシンガポールに来ているので、交通手段は勝手知ったるもの。サンテックシティーからエスプラネード劇場方面のボート乗り場に歩き、水上乗り合いタクシーで、美しい夜景を楽しみながら、シンガポール川を上ぼり、住まいのコンドミニアム近くのクラークキー船着き場で下船して帰ったようだ。



シンガポールリバーの水上タクシー

 

エスプラネード 2002年オープン

 

さて音合わせの前に、司会の宮川泰夫さんのご挨拶。10年以上のど自慢の司会をされてきた大変な方だ。そのすごさは後でわかった。

音合わせは番号順に始まったが、おいおいちょっと待て。はぐれコキリコのご老人を立たせたまま、ずっと待たせるのか。進言して先回りさせてもらった。
聞けばご老人は、シンガポールの住人ではなく、駐在されている息子さんのご家族が大会への出場を申し込み、ご老人はこの大会にあわせ、日本からわざわざ来られたということであった。そして見事予選を通過され、本番を迎えることになった。

私の音合わせはピアノにあわせ、まず原曲キーで声を出した。半音でも下げてくれると楽に歌えるのだが、声が届いているということで、原曲キーで攻めることになった。ただし声はマックスに出さないと最高音が苦しい。

この日、解放されたのは夜中12時を回っていたと思う。翌日も昼からリハーサルとなり、ゲストの氷川きよし君、藤あや子さんのご登場となる。

さて、私がリハーサルで忙しくしている間、私のサポーターは各方面に広がっていき、私の通う中国語学校のクラスのメンバーや、毎週末のテニスのメンバーも加わった。応援団長Yさんをはじめとして大変な熱の入れようだ。手に入るところから入場チケットを出来るだけかき集め、本番当日の会場応援団は40名近くに膨れ上がっていった。


前日土曜日のリハーサルの課題は、司会の宮川泰夫さんとの面接であった。

テレビ出演中は、いつも朗らかにされている宮川さんであるが、違う...まず笑わない。プロフィールの確認、志望動機、剣道着の話、母親と奥さんを呼んだこと、怖い顔でどんどん聞いてくる。そして娘は日本で留守番をしていることから、話が進められて、娘は氷川きよしの大ファンということになってしまった。
ではそうゆうことで司会進行します、と言われれば、はいよろしくお願いしますというほかない。
毎回毎回、NHKのど自慢は生中継である。放送事故は許されない。ましてや宮川さんにとって相手は素人で、何をしでかすかわからない。だから目が怖い。余計なことはさせない、という凄みが暗示のようにひしひしと伝わってきた。これは本番当日直前まで放射されていた。

リハーサルの合間、出場者は控室で談笑。皆さんの素性がだんだんわかってきた。

藤あや子さんの曲を歌うかわいい駐在員の奥さん。寿司店のおかみさん。カラオケパブのママさん。学校の先生達。ズンドコ節を歌うインターナショナルスクールの高校生グループ。歌姫は大学生、後でわかったのだが彼女はカラオケ大会の常勝者。そして私と同じカラオケ好きの駐在員たち、等々。

シンガポール人の方々もほぼ皆さん、日本語を上手に扱う。日本に関連したお仕事をされていたり、日本での滞在暦を持たれた方々であった。

コキリコのご老人は心細そうにされていたので、お茶や、コーヒーをお持ちし、雑談をして、落ち着かせてさしあげた。


さてゲスト登場。
ゲストは氷川きよし君と藤あや子さん、本番会場に一緒に入場されてきた。
お二人とも私服で、リラックスされた雰囲気。氷川君はすごく細くて、お菓子タレントのようだ。当時26歳、現在までに紅白出場通算18回。
藤あや子さんは、ジーンズ姿で、髪もセットせず、薄化粧。でも、はあ!きれいとみんな驚きの声をあげていた。色白で典型的秋田美人と思うが、着飾って髪をあげてばっちり化粧した演歌歌手の時より、私はずっと素敵と思った。
当時42歳。その4年後に娘さんが孫を出産し、おばあちゃんとなる。現在紅白出場通算21回。
藤あや子さんのオフィシャルブログ (アメブロ)

https://ameblo.jp/ayako-fuji/

 

我々出場者といえどもゲストの直近まで近づくこと、ましてや握手、話しかけることもできない。(しかし本番で私はそれを実行することになった...)

氷川君がリハーサルで練習されていたのが、白雲の城ときよしのズンドコ節。
藤あや子さんが曼珠沙華とむらさき雨情。明日の本番後、審査中に歌われる曲だ。

氷川君本人が白雲の城を歌っているのを聞いて、なるほどそうゆう風に歌うのかと考えているうちに、知らずにものまねに向かっているのに気づかなかった...

 

 

当日、開場前。応援団、私の家族はすでに到着し、となりの体育館のような場所に集合していた。総勢40名近く、席の確保の作戦、応援の仕方、タイミングを入念に打ち合わせしていたようだ。それと如何に自分(達)がテレビに映ることを考えていたと思われる。

白雲の城の1番の歌詞は以下

夢まぼろしの 人の世は
流れる雲か 城の跡
苔むすままの 石垣に
栄華の昔 偲べども
風蕭条と 哭くばかり

1番は暗唱できねばならない。当然歌詞テロップなどはない。
おそらく時間の関係で1番の歌詞を全部歌うことはない。

入場の順番、整列位置、座席位置、マイクの受け渡しの指示など、本番直前のリハーサルが実施された。私はすでに上下白の剣道着に着替えている。

本番開始時間までは各自練習したり、控室でリラックスしていた。
コキリコのご老人はヘッドホンを付けて懸命に直前の練習をされていた。
歌姫は何もしない。落ち着いて待機している。

シンガポールと日本の時差は1時間ある。よって日本の放映時間より1時間早く開始となる。まだ午前中ということだ。そんな時間に酒も飲まずに歌が歌えるのかと不安になる。

私の出場番号は6番。だが例の入場曲に乗っての順番は一番最後。整列位置は向かって一番右。歌姫は一番左。両翼で雌雄を決すと、勝手に思う。
入場を待つ近くの中国系の参加者には「別緊張、別緊張」(ビエジンチャン 緊張しないで)と中国語でリラックスさせてあげた。

いよいよ入場の時間となった。例の鐘と行進曲が流れ、手をたたきながら、順次入場、整列する。一番端なので整列時テレビにはほとんど映らなかったことは後でわかった。

司会者、宮川さんのご発声。満面の笑みだ。
ゲストが紹介され、会場は大いに盛り上がる。

私のサポーターを探す。右手中段前、大応援団が陣取っている。
井上先生、加油!と横断幕まで用意されていた。私の中国語のクラスメート、建設会社の社長が週末なのに作成してくれた。中国語で先生は教師ではなく、--さんを意味する。加油はガンバレ。
母と妻も横断幕の前、中央に座っているのがよく確認できる。観客席は暗くならないので、ステージから、観客席の様子がすごく良く見える。

後方の席に座り、1番からの出場者を応援する。

3番、「眠れぬ夜は君のせい」。シンガポールの歌姫は上手だった。キンコンカンコン、見事合格だ。宮川さんのインタビューで彼女はシンガポール大学の学生さんと紹介された。大変な英才女子であった。

 

私は普段、これまであまり緊張することはなかった。司会とかスピーチのようなことにも緊張することはなく、そつなくこなしていた。
 

近づくにつれ、なんかドキドキしてきた。やばい!何が別緊張だ、俺が一番緊張しているんじゃないか!
後から聞いた話だが、応援団も相当緊張していたということだ。

 

5番、「ふたり花」。駐在員の奥様、Mさん。藤あや子さんの歌を上手に歌ったが、鐘は二つ。惜しかった。後のトークでは藤あや子さんと上手な掛け合いをされていた。



とうとう順番が来た。
宮川さん「さて次は日本からの単身赴任者代表です。」
マイクを渡され、

「6番、白雲の城」

氷川きよし君に対し一礼。彼も起立し礼を返してくれた。
ギターのイントロが流れる。そして、

夢まぼろしの~~

その時、予選から参加していた応援団のメンバーは気づいた。
あれ?なんかおかしい。声が出ていない。
そう、私は氷川きよし君の発声を真似ていたのである。
プロでもないのにかっこつけて歌えば、それは私の声ではない。
当然高音も通らない。

~~人の世は

さらに応援団、観客席があまりによく見えるので、そらすために正面にすわっているヒジャブを巻いているマレー系のお嬢さん二人をずっとみていた。なんだ、体がふわふわしてきた。

流れる雲か~~

おかしい。その後の歌詞が消えている。思い出せ!
この数秒がとてつもなく長く感じられた。
すいません。
歌詞が出てこない。気絶しそうだった。
応援団は声のない悲鳴をあげる。

気づくと横に氷川きよし君が立っていた。


私の異常を感じ、ゲスト席から飛んできてくれたのだ。
何ていいやつじゃないか。
我を取り戻し、立ち直った以降はすぐ横にいる氷川君と一緒に歌った。




苔むすままの 石垣に~~
栄華の昔 偲べども~~
風~~ ここで鐘2つ

終わった。やってしまった。日本だったら鐘1つ。
3千人の観客、日本全国、全世界でテレビを見ている何千万という人の前で、やってしまった。
私の人生はこれで終わったと思った。

しかしまだ終わっていない。
司会の宮川さんとのトークが控えている。ゲストの氷川君もそのまま舞台に残っている。

これからセカンドステージ。
開き直った。
まず落ち着いて氷川君に頭をさげて礼をした。本当に申し訳ない。さらに感謝の気持ちで握手を求めたところ快く応じてくれた。何と礼儀正しく寛容な青年だ。


宮川さん「今日の衣装はどうされたのですか?」 
「日本で留守番している娘の剣道着です。」
宮川さん「日本から送ってもらったのですか?」「ハイ」
宮川さん「単身赴任ということですが、今日はこの日のために、日本からお母さまと奥様をわざわざ呼ばれたそうですね。」
「ハイ、あそこに」と手を向ける。
テレビカメラが応援団に向けられる。みんな一斉に手を振りテレビに映ろうとしている。揺れる横断幕の真ん中で母と妻はしっかり映ったようだ。
残念ながら応援団長のYさん、中国語のクラスメート達はテレビアングルから外れていた。




話は娘に及び、彼女は氷川君の大ファンで、日本でテレビから応援しているので一言かけて欲しいと無茶ぶりをすると、(実は宮川さんとの打ち合わせに従い進行しているのだが)

氷川君、カメラに向かって大アップ。「――ちゃん元気ですか?がんばってくださ~い。お父さんもがんばりました。」としっかり対応してくれた。本当にいい青年だ。
私は失敗したが、テレビ的にはゲストを盛り上げて、いい演出となったのではないだろうか。

氷川君に深々を頭を下げ、二人ならんでそれぞれの席に戻った。

そしてのど自慢は続き、16番"はぐれコキリコ"のご老人 Nさん、82歳。とても難しい民謡調をしっかりと謡われた。

そして25組が歌い終わった。

ゲストの歌の披露。我々と違い、しっかりエコーの効いた音響で気持ちよく歌われていた。

藤あや子さんの曼珠沙華。山口百恵さんのカバー。作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童。大きな振りで、「白い花さえ、真紅(まっか)に染める~」。

審査が終わり、合格された組が前に並ぶ。
チャンピオンの発表。

 

3番"眠れぬ夜は君のせい"。シンガポールの歌姫Bさんに決定!
今回のチャンピオンは来年、あの紅白歌合戦の会場、NHKホールで開かれるグランドチャンピオン大会に出場の権利を得る。


何とも劇的な週末の3日間であった。
出場者がNHKからいただいたのは、のど自慢の小さなトロフィーと、NHKのど自慢と刺繍された黄色い帽子。優勝者、合格者のトロフィーは私のものより大きい。後で知ったのだが、予選に参加され、本番には進めなかった方々にはのど自慢のバッチが配られた。



 

大会後、日系スーパ―にはしばらく行けなかった。実際、狭いシンガポール、日本人が集まりやすい街中を歩いていると、知らない人から会釈されたり、子供からは指さされたりした。シンガポールに住む日本人2万人のほとんどは番組を観ていたに違いない。仕事関係でも、何人かが出場を暖かく労ってくれた。

そして私がこの行事で受けたダメージは思っていたより深く、以降大勢の前でしゃべることが苦手というより、ひどく下手になってしまった。

しかしながら、それ以上にこの行事のよる人々との交流が、私の人生を豊かにさせた。

まず私の応援団の皆様、期待していた鐘の連打をお届けできず、誠に申し訳ない!本番終了の夜、早速皆さま集まっていただき、慰労会を開いていただき、本当にありがとうございました。
この行事によって、その前後の長い期間、大いに盛り上がっていただけたことが何よりうれしかった。15年経った今でも、応援団長Yさんと会うと、のど自慢のことは、すぐに話題に上り懐かしがってくれる。

一方、大会後、このまま終了解散というのはさみしいと、有志が立ち上がった。団長となった24番S君達の努力により、シンガポールに残っている出演者のほぼ全員の連絡先が、突き止められた。
のど自慢本番から2か月後、場所はシンガポール日本人会のカラオケルーム、第2回のど自慢 in Singapore が開催され、出場者のほとんどと再会を果たした。

チャンピオンの歌姫Bさんは、第2回の集まりには参加しなかったが、翌年の東京で開催されたグランドチャンピオン大会に出場した。惜しくもグランドチャンピオンにはなれなかったが、日本を楽しんだことであろう。余談だが、このグランドチャンピオン大会にて、地区チャンピオン2人が白雲の城を歌ったということである。

その前後も、オーチャード通りのホリデーインホテルの中にあるすし清、おかみさんが12番 Nさん。

そこに5番Mさん、17番Yさん、団長24番 S君、19番 U君と豪勢なランチを楽しんだ。アナゴの稚魚ノレソレのポン酢和えが通しで出されたのは驚いた。
S君、U君とはマレーシアに渡って、ゴルフも楽しんだ。S君はのど自慢の黄色い帽子をかぶってプレーした。

はぐれコキリコのご老人Nさん。
のど自慢の翌年にご丁寧に私個人宛てにお手紙を送ってくださった。丸紅にお勤めのNさんの息子さんを通じて私の日本の本社に届いた。
大したことはしてないのに、私に対する感謝の暖かい言葉で満ちていた。
私も恐縮し、ご立派な歌唱でした、のど自慢のメンバーはこうゆう方々で、その後も交流が続いています、Nさんも今後も歌を続け、どうかご健勝にと返信した。
Nさんの息子さんは、メンバーである名門 The Singapore Island Country Club に招待いただき、プレーを共に楽しんだ。
残念なことにコキリコの N翁は、その数年後にお亡くなりになったと便りがあった。

私の母も8年後に他界した。

のど自慢の翌年、私はシンガポールを去り、その後すぐにアメリカ駐在として渡り、家族と共に13年間滞在し、そして今は日本に帰国している。
あれから15年である。
思えばあの頃は、髪は黒く、体重も10キロ以上痩せていて、腹も出ていなかった。老眼もなかった。毎週末テニスをし、時にはマレーシアにダイビングにも行って、体力は十分にあった。今の62歳になった自分を見て思わず嘆きがでる。

15年も経つのに、記憶は容易によみがえり、回想録を書くことができた。人生における貴重な経験を共にしていただいた方々に心より感謝申し上げる。

シンガポール NHKのど自慢編