「勝手に火葬」は行政の無責任だろうか? | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日の「クローズアップ現代」(NHK)は「知らないうちに火葬された『あふれる遺体』に相次ぐトラブルの実態」。

 

例えばオーストラリアで暮らす娘の母親が日本で急死し、娘の知らぬ間に行政が火葬したと言う。

 

しかし行政にも言い分があって、娘がオーストラリアにいることは知っていたが、連絡先が分からず、母親が残した携帯電話にはロックがかかっていて開くことさえできない。

 

やむなく遺体を火葬したらしい。

 

もう一つの例は近所に実の弟が暮らしていたにも関わらず兄が孤独死扱いされ、やはり行政の手によって火葬された。

 

こっちは弟が結婚したことで、兄の本籍と異なり、兄の本籍から弟の存在がわからなく、身寄りのない孤独死とされたことによる。

 

連絡は取りあっていたらしいが、年賀状のようなものなど弟の痕跡が見つけられなかったということだろう。

 

行政の肩を持つわけではないが、ある意味、仕方なしと思う。

 

行政は遺体を長く放置できないので処分する。

 

警察や探偵ではないので身内の探索に時間も人手もかけられない。

 

「あふれる遺体」とあるのは、そういうケースが急増しているということ。

 

番組ではゲストが一人暮らしの年寄りは、身内の連絡先はメモにして残すのがいいかもしれないと発言。

 

ごもっともだが、死ぬ本人はまさか自分が急死するなどと考えもしない。

 

オーストラリアに娘がいる例も、近所に弟が住む例も、死者はともに70代。

 

死ぬには若いと言えるし、本人も急死はまさかであったろう。

 

それは自分にはあてはまる。

 

同じ70代で、鴨川を走っているときに自分が誰かわかるものを身に着けていない。

 

走っている最中に死ねば、どこの誰かわからず、つれあいに連絡はいかない。

 

なかなか家に帰ってこなけらば事故にでもあったのかとつれあいが探し、火葬されるということはないだろうが、遺体との対面は遅れる。

 

そういうものだと思う。

 

まして一人暮らしは身内への連絡は難しい。

 

残された身内が無念だが、死んでいく本人は突然、死ぬのだから無念もくそもない。

 

死というのは元来、孤独なものである。

 

人は一人で死んでいくしかない、身内がたくさんいても。

 

死ねば終わりで、遺言がどうの、葬儀がどうの、墓がどうのとは思いたくても思えない。

 

冷たい言い方かもしれないが、身内が死ぬというのは、トンと突き放されたようなものであろう。

 

死ぬ瞬間に立ち会おうが、あるいはずっと後で死を知ろうが関係なく、そういうものではないのか。

 

行政に火葬された身内の無念はわかるが、行政に勝手に火葬されたという怒りの本質は死があまりにも突然すぎるということへの苛立ち、呆然さではなかろうか。

 

番組ではそこまで言わない。

 

言わないことが的外れな気がした。