外国人受け入れは簡単ではない | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日のNHKニュースで「欧州議会で極右勢力が議員数を増やす勢い」というのをやっていた。

 

極右勢力が、特に若い人たちの間で支持を広げているのは、一つは移民が国内に入っていることへの抵抗であり、もう一つは極右勢力がウクライナへの政府に支援に反対しているからである。

 

ウクライナへの支援としてウクライナの農産物への関税を撤廃しているので、価格の安い農産物がウクライナから入ってきて、自国の農産物が売れず、農業が打撃を受ける、


農業に従事する若い女性の一人は「極右と呼ばれても仕方ない」と支持を表明していた。

 

ニュースの中で日本の政治学者が登場し、「若い世代は極右の怖さを知らない」とコメントしていたが、そんな簡単な問題ではないと思う。

 

確かに極右の怖さという問題、極右がソフト路線で言葉巧みに若い世代を取り込もうとしていることは危険ではある。

 

しかし移民やウクライナ支援という問題は簡単ではない。

 

先日、バイデンは「日本は移民を受け入れない排他的な国だ」(だいたい)という言い方をした。

 

これは日本人にはなかなか理解しがたい。

 

難民、また貧しい国から逃れてきた移民には同情するが、じゃ「どうぞ」をもろ手を挙げて受け入れるかというと抵抗がある。

 

移民が流入することで仕事を奪われるという心配があったり、彼らが貧しさや将来への不安から秩序を乱すということがありうることは否定出来ない。

 

単純に「かわいそうだから」受け入れてあげましょうということにはならない。

 

移民が他人事である日本人にはさらにわかりにくい。

 

話を身近な視点でみるとたくさんの外国人観光客が京都に来ている。

 

金を使ってくれるから「お客さん」扱いするが一般市民にとってはマナー違反や、大きなスーツケースをバスに乗せる彼らへの反感がある。

 

外国人のみんながみんなそうではないということはわかっていても、見分けがつかないので、みんなみんな鬱陶しい。

 

外国人が物珍しかった時代とは違い、どこにいっても外国人であふれている光景にはうんざりする。

 

旅行客は一時滞在で「旅の恥は搔き捨て」をする。

 

一時しかいないからと羽目を外し、好き放題な行動をとり、それがマナー違反になる。

 

移民と旅行客ははたして違うだろうか?

 

一時的な腰掛けという意味では同じだ。

 

言葉は悪いが「異物」になる。

 

少し前に自分の家に隣接するマンションに暮らす外国人が夜に騒ぎ、困っているという話をした。

 

マンションの管理会社に「注意の呼びかけ」を依頼し、すこし収まった感があるが、それでも彼らの煩さは完全になくなったわけではない。


相変わらず夜に大声で話す。


なぜ大声を出す必要があるのかがわからない。

 

自分は彼らを知ったことで外国人の存在が身近になり、深夜に騒ぐマナー違反から、外国人に嫌悪感を抱きつつある。

 

もし外国人を日本から追い出せを言えば、賛成はしないまでもすこし同調するかもしれない。

 

政治的な問題ではなく、個人にふりかかってくる災難にみたいなものになると、単純に「国際化」の必要性とか外国人への偏見、差別はいけないで済まされると納得がいかない。

 

「極右と呼ばれても仕方ない」とは言わないまでも外国人との共存は簡単ではない。

 

自分たちはここに暮らして、安寧な生活を望んでいる。

 

それを理解できない腰掛け外国人と融和できないのはどうしようもない。

 

他所からやって来た外国人が努力するほかないと思うし、そういう態度は見えれば自分たちの考えも変わると思う。

 

そしてなにより移民とか難民という問題は戦争や独裁、貧困ということが根底にあり、そこを解決しないで移民、難民、あるいは外国人労働者の受け入れは、その場しのぎにすぎない。

 

また日本にやってきた外国人労働者などは日本に来たくてやって来たのではない、早く自分の国へ帰りたいというのもあり、日本に、自身が暮らす地域に溶け込む気はさらさらないという現実もある。

 

本来、そっちに目が注がれ、解決するのを急ぐことが先決で、そこをなにもしないで、ただみんな仲良くやりましょうはない。