外国人ってなに? | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日の続き。

 

いったい「外国人」ってなんだろうか?

 

ペリー来航が1853年でそのあと「尊王攘夷」が始まり、そして1945年ころには「鬼畜米英」などという言葉もあった。

 

ところが多くの日本人は外国人を見たこともなかった。

 

いわば外国人より先に尊王、皇国というようなナショナリズムありきで、外国人そのものを判断したものではない。

 

外国人が「こんな」だから排斥すべしというものではなかった。

 

1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博の時代でも外国人を多くにはみかけていない。

 

けれど「こんにちは こんにちは 握手をしよう」と外国人を手のひらを返したように歓迎したが、それでも見かけた外国人の数を数えられるほどだった。

 

1980年代のバブル時代にこぞって海外旅行に出かけた。

 

始めて海外の土を踏んだ。

 

しかし目にしたのは観光地で、実際の外国の現実、現状ではなかった。

 

上海やハノイに行ったときに土産物屋、レストランが並ぶメインストリートから一つ路地を入るとそこに貧民窟があり、あるいは住まいを持たない人たちが訳の分からないものを食べているのを見かけた。

 

それでも自分たちから海外へ出かけただけで、海外から「外国人」がたくさん日本にきたのはここ10年ほどではないかと思う。

 

観光地、京都ですら大勢の外国人を意識しだしたのはここ数年である。

 

そして観光客だけではなく、労働者、留学生もたくさん来ている。

 

大学でゲスト講師をしているが、教えている20人ほどのクラスに3~4人の中国からの留学生がいる。

 

ここ数年、そんな感じだ。

 

ガイドをしているので外国人観光客から道を聞かれたり、片言の英語を話さねばならないのは日常茶飯事だ。

 

それでも外国人ってなに?と思う。

 

隣接するマンションに暮らすアジア人労働者の夜の騒がしさに安眠妨害され、バスの中で大声で話す中国人観光客をみて、外国人を一括りで判断してはいけないとわかりつつ、彼らの野蛮さにはうんざりする。

 

マナー、モラルがないとまで思ってしまう。

 

いい人たちかもしれないが、マナーやモラルがないのは、人としてなにかが欠如し、やはりいい人ではないと思える。

 

欧米人にももちろんそんなのがいる。

 

外国人だからではないとわかりつつ、マナーやモラルが欠如していることに理解しがたい「壁」を感じる。

 

ナショナリズムからではない外国人への排除意識が生まれる。

 

でもこれが、いいも悪いも外国人への「意識」であり、ある意味、やっとそこまでやってきたとも思える。

 

やっと自分たちは外国人を「生」で感じ始めた。

 

外国人を知らずに嫌ったり、逆に好きになろうとしたりした時代から抜け出しつつあると言える。

 

やっと入口。

 

外国人、「外」の「国」の「人」という表現も幼稚すぎるのかもしれない。

 

とにかくこれからますます外国人ってなに?と思うことになるだろう。